ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2006年11月4日

ペーテリス・シュミッツ

 11月4日(土)、久しぶりに図書館をはしごして調査した。
 ペーテリス・シュミッツという学者がいた。ほぼ明治維新の頃生まれ、モスクワとペテルブルクに学び、最初は露文科だったが、専攻を中国語に変更。その後、北京大学でロシア語を教え、開設間もないウラジオストクの極東大学で中国語を教えた。中国語はその研究においても当時の帝政ロシアでトップクラスの実力を持ち、その間調査・研究したツングース・満洲諸語の研究では世界的権威であったとされる。彼が初めて文字に起こし文法を記述した言語もある。 ラトビアが独立すると、その頃ロシアの政治的状況が困難になっていたこともあり帰国。彼はそれ以前から、夏休みに何度も帰国していて、ラトビア人としてのアイデンティティを失わないよう努めていた。そして、帰国するとラトビア大教授になり(なんと、コロンビア大学からの招聘を断ったのである)、選択科目として中国語などを教えたこともあったが、主としてラトビア民話の収集と研究に力を注いだ。ソ連軍が攻めてくる少し前、病気で亡くなった。
 こんなスケールの大きな学者は後にも先にもいない。空前絶後である。全世界で、15巻もの民話集が作られた民族がどれだけあるだろうか。しかし不思議なことに、今のラトビアではあまり注目されていない。理由はいろいろあるが、まず、彼の東洋学の業績を評価できる人が殆どいないことがあげられる。私とて中国語も満洲語も出来ないし、過去の学者の足跡を追うことが本来の学者の仕事でないことは承知しているが、彼への興味は尽きないのである。
 シュミッツには未公刊の自伝があるという。それを調査するために、まずアカデミー図書館に行った。しかし貴重書室に行ってもそれらしき資料はないし、それ以外の手稿などは以前閲覧したので、成果はなかったが、見学のグループが来ていた。アカデミー図書館にある貴重書のコレクションがずらりと並べられ、館員の方が説明していた。私はシュミッツの調査などそっちのけで一緒に見学していた。見せられたものがあまりに多くて覚え切れなかったが、マルティン・ルターのリーガ市民向けの書簡、などは非常に興味深かった。他に面白かったのは、ラフカディオ・ハーンが訳した日本民話集。もちろん英語で、純和風の挿絵がみんなの目を釘付けにした。しかも紙ではなく布である。出版は明治30年代。同じシリーズでドイツ語に訳された民話集もあった。
 見学が終わった後シュミッツの話をしたら、自伝は国立図書館の貴重書室にあるのではないかという話だったので、すぐ行ってみた。旧市街の大聖堂(ドーム)からも程近い、議会の斜め向かいである。しかしそこにもなかった。その代わり、シュミッツの子息が1962年に、タイプ打ちで6ページにまとめた父親の略歴と、ラムステットが1913年にロシア語でシュミッツにあてて書いた手紙を閲覧することが出来た。両方とも面白かったが、前者には、ラトビア大学でシュミッツの元でポーランド人研究者が中国語学を研究し学位をとった、という話が初耳で、面白かった。残念ながら名前は出ていなかったが、調べはつくだろう。後者のラムステットというのはフィンランドの東洋語学の巨頭で、駐日公使も勤めた人物。彼の手紙は非常に美しいキリル文字の筆記体で、眺めているだけでも楽しい。彼とシュミッツの間にどういう接点があったか探っていたところだったので、これは貴重な成果であった。