ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2011年12月4日

四つの世界と四大

また何か月もさぼってしまったので、まず最新情報から。
 イマンツ・コカルスという合唱指揮者が、90歳で亡くなった。
日本でいう「人間国宝」級の存在で、かつて率いていた混声合唱団アベ・ソルの指揮を子息のウルディス・コカルス氏に譲った後も、つい最近まで合唱コンサートや様々な音楽行事にゲストとして呼ばれていた。私は何年もお会いしていなかったが、街で偶然会ったりしても「おお元気か~」と抱擁してくれる、そんな暖かい人であった。
残念ながら先週火曜日の追悼行事は用事があって行けず、テレビで見たが、その業績と人となりをしのばせる盛り上がりであった。リーガ大聖堂で演奏会が開かれた他、自由記念碑の前でも大型スクリーンに彼の演奏の模様 が映し出され、大勢の人が集まっていた。いくら合唱音楽が盛んな国とはいえ、一人の合唱指揮者の死去に際してこれほどの行事を行なうとは、大変なことである。
 訪日経験もある。ソ連時代の1970年代だったはずだが、リーガと神戸が姉妹都市になったので合唱団とともに訪日したのである。だから日本には特別な親近感を持ってくれていたのかもしれない。もう昔のことなので、日本側には関係者はもういないのだろうか。日本でまだ誰もコカルス氏の訃報を知らないのだとしたら、残念なことである。

 もう1か月余り前のことだが、、11月1日、エストニアの作曲家アルボ・ペルトの作品ばかりの演奏会が、作曲家 自身を招いてリーガ大聖堂で開かれたのだが、あろうことか私はこれまた用事があって行けなかった。行った人 に話を聞いたら、素晴らしい演奏会で、ペルトと親交のあるラトビアの作曲家ペーテリス・バスクスやペレーツ ィスも来ていたよ、と言うので、インターネットのニュースサイトで写真を見たら、果たしてそうであった。
とても悔しくて仕方がないので(?)、自分が見に行ったバレエの公演のことを書こうと思う。

 というわけで、ようやく本題である。
10月28日、久しぶりにオペラ座へ足を運んだ。しかも、バレエの公演である。
四大(しだい)というのは、ギリシャ思想などで世界を構成する4要素、火、水、風、土のことなので、このよう に訳してみた。

 前評判だけでなく、14日の初演も非常に好評で、とても興味がわいたので、3日前にチケットを買いに行った。
左端のマス席に陣取った。舞台左方が見えないが、かなり近いので踊り手の細かい動き等を観察することができ てなかなか面白い。特に高い席というわけではなく、はっきりいうと、千円もしなかった。中央最前列もそれほ ど高くなかったようだが、私が買いに行ったときにはもう売り切れていた。

 バレエはタイトルの通り、4部構成で、第1部がアルトゥルス・マスカツの「タンゴ」、第4部がペーテリス・バスクスの作品で、第2部と第3部は日本でも知られているようなクラシック・バレエの定番であった。4部構成とはい っても、振り付けなどが全く異なっていて、飽きさせない。とにかく、最初と最後にラトビアの作曲家の作品を 据えたというのが素晴らしい。
 そうしたら、先週、バスクス氏に久しぶりにお会いした。リーガ中央駅の近くで、全くの偶然である。11月30日 にバレエの公演があるというので、「10月に行きました」と言ったら、とても喜んでいた。

2011年10月15日

テレビ東京でラトビア経済の特集

 報告が遅くなってしまったが、10月初めにテレビ東京の「モーニングサテライト」という経済番組で、ラトビアの財政再建と経済の動向が取り上げられた。インターネットでも見ることができるので、ぜひご覧ください。
 アドレスは下記の通り。
http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/nms/feature/post_8091/
http://www.tv-tokyo.co.jp/mv/nms/feature/post_8152

2011年4月12日

東日本大震災に関して

 前回の投稿からはや3か月近くが過ぎようとしている。私は相変わらずラトビアにいて春の訪れを心待ちにしているところである。雪はすっかりとけたが、まだまだ寒い。おととい、ユキワリソウが咲いているのを見つけた。
 さて、3月11日の東日本大震災から1か月になる。私は本震の数時間後、テレビのニュース(CNNだったと思う)で知り、愕然とした。さっそくその日の晩(現地時間)、実家に電話をかけたが、予想通り電話が全くつながらない状態で、2~3時間格闘した後、ようやく母と話すことができた。私の家族や親戚は被災しておらず、当面日本への帰国は予定していない。しかし、おそらく外国にいる多くの日本人が感じていることであろうが、このままここにいていいのだろうか、日本に帰って何かしなければ、と気持ちが揺れたのも事実である。その他、私なりにいろいろなことを考えた。長い文章になるが、私が本当に日本に向けて伝えたいことは最後の方に書いてある。
 言うまでもなく、未曾有の自然災害(そして人災)を前にし、私ごときに何もできないけれども、犠牲者の冥福をお祈りし、被災者の皆様にお見舞いを申し上げるとともに、1日も早く復興が進み、原発の問題が解決し、被災地をはじめ日本で安心して生活ができるようになり、外国の人も安心して日本を訪れることができるようになることを願うものである。そして、震災直後から、こちらの日本と関係ある人からも、ない人からも、お見舞いの言葉をいただいたことに感謝したい。しかし、今までこのブログに何も書かなかったのは、震災に際してここで何か、お見舞いの言葉や声明(?)じみたものを発して、何の意味があるのかと考えてしまったからである。私はラトビアにいる日本人を代表する立場ですらないし、ましてや、外国にいる日本人として故国へメッセージを発信、などというつもりもない。そして、当然というべきか、その場にいないのだから情報が不足している。かといって、何も知らないかのように普段通りラトビアでの出来事をポツリポツリと書くというのも、それはそれで変である。あれこれ悩んでいるうち、3月末から4月初めにかけて、全く関係のないことでちょっとバタバタしていた。それらが一段落したところで、震災に関してラトビアでどのような報道がなされたか、ラトビアの人々がどんな反応を示したか、といったことを書いてみようかと思う。
 我が家では幸か不幸か、日本のテレビを見ることはできないので、日本からの報道はインターネットのみで、ケーブルテレビと契約してラトビアのテレビの他、CNNやBBC、またロシアのテレビを主に見ている。よく言われることだが、外国では日本の報道よりも、原発のことを大きく取り上げていたのは、その通りだと思う。それはそうだ、自国に影響があるかもしれないのだから。特に旧ソ連では、25年前のチェルノブイリの記憶がある。原発以外の面では、同じ被災地からのレポートでも、ロシアのテレビの方がCNNなどより実情が伝わってくるような報道ぶりだと感じた。
 ラトビアのマスコミの報道は大半がアメリカなどのニュースの焼き直しだったが、独自のものとしては原発事故の分析などをしていた。また、実をいうと、私のところにラトビアのマスコミからインタビューの申し込みが4・5件ほどあったが、全てお断りした。ラトビア語を話す日本人が何か語れば、ラトビア人に強い印象を与えるものとなったかもしれないが、私とて日本にいないので、多くの情報を持ちあわせていないのは同じことで、印象だけで中身がなかったらしょうがないと思ったからだ。それに、これはすでに経験があるが、収録の場合は先方に都合よく編集されてしまう。しかし、断ったあとで正直なところ、居心地の悪さのようなものを感じ、やはりインタビューを受けるべきだったか、義援金集めに少しは協力できたかなど、少し後悔の念もある。
 ところで、その義援金集めについてだが、ラトビア政府は、国家予算から約1700万円の義援金を送ると決定し、すでに送金されたようだ。が、それよりも、支援のあり方に関して、ある新聞に載った、ラトビア医師会会長が寄稿した記事が目にとまったので読んでみた。要約すると次のとおりである。 震災直後、保健大臣と外務大臣が話し合って、EUの医師団の枠内で医療援助をしよう、ということになっていた。それが、翌週の閣議では、外務大臣がもっと手厚い支援を、と主張して義援金を決定したということらしいが、医療支援をしないのは残念である。ラトビアから医師を派遣して、この災害から学べることは多い(ラトビアはほとんど地震のない国だし、津波も来ないから、放射能等の分野で)。今からでも遅くない。医師の派遣を今一度検討してはどうか…
 これは正論だと思った。この計画が実現すれば一石二鳥で、素晴らしいではないか。私も、外国が今回の日本の経験から学ぶことは非常にたくさんある、大いに学んでくれ、と考えている一人である。もっとも、日本が外国の医師を受け入れるのかどうかという問題の方が厄介であるが…。更に、もっと良いことがあると思う。申し訳ないが、ラトビアが千数百万円、日本に送ってもそれほど注目されるとは思えない。しかし、ラトビアの医師が被災地に駆けつけて感謝され、「私たちはラトビアから来ました」と言う方が、被災地の方々にとっては「ラトビアという国からわざわざ支援に来てくれた!」となるわけである。支援を通じて、ラトビアという国の評判を高めることになるので、あくまで素人の個人的意見だが、単にお金を出すより、このほうがはるかに良い。しかし、このような計画は今のところ進展していないようである。
 また、震災の1週間ほど後であったか、ラトビアの仮設住宅メーカーが日本に売り込みを計画している、と報じられていた。ひとの不幸で金もうけ、などと考えるべきではない。ラトビアはもっと質の高い製品を作って輸出を盛んにしなければやっていけないのだ。大いにこの機会を利用すべきである。
 一方、ラトビア赤十字が行なっている一般からの募金について言えば、200万円近く集まったようである。これも大金とは言えないが、やはり思うことがある。ラトビアは貧富の差が激しいが、大金持ちが寄付したという話を聞かない。でも、私はここの庶民の生活ぶりやメンタリティをよく知っているつもりだが、月3万円程度の年金でかつかつの生活をしているお年寄りなどが、ニュースを見て「日本が大変なことになっている!」と、銀行や郵便局に行って寄付をしている姿が目に浮かぶのだ。実際に見たわけではないが、充分信じられる。周りのラトビア人は、「それしか集まってない訳がない。きっと赤十字以外でもいろいろな所で義援金を集めていて(詐欺行為がないか心配である)、合わせればもっと行くよ。あなたも何か基金でも設立して募金を呼びかけたら、結構集まると思うよ」などと言っていた。私はそういうことはしていないが、知人に赤十字への募金を呼びかけることはした。

 ラトビアとの関連で私が心を打たれたのは次のような話である。
 ラトビアのテレビ局は、日本に特派員など派遣していないので、震災を受けて、報道番組の中で日本在住のラトビア人と電話やスカイプで中継して対話するということをやっていた。それ自体はCNNなどもよくやっていたことである。ある番組では、京都の大学で生物学の研究にいそしむジャガルス氏という若い男性が、自宅でラトビア人の奥さん、幼い娘さんと3人で出演し、日本の状況を伝え、しばらくラトビアに帰国するつもりだなどと話していた。ちなみに、ジャガルス氏の父親は有名な俳優、おじも元々俳優だが、現在はラトビア国立オペラ座の総支配人である。
 その後、外国人が大挙して日本を脱出する中、ジャガルス一家はかなり苦労して航空券を手に入れ(中東のどこかの産油国とイスタンブールを経由してまる2日かかったそうだ)、リーガ空港に到着した模様もテレビで報道された。
 しばらくして、ある週刊誌に、ラトビアに一時避難してきたという日本人のインタビューが載った。それによると、京都の大学でジャガルス氏と一緒に研究している日本人女性(夫は日本人)が、幼い娘さんと二人で、ジャガルス氏の提案で日本を出国し、しばらくラトビアに滞在することになったということだ。ジャガルス一家はラトビア中部のツェースィスという町(以前、このブログで取り上げたことのある歴史ある町)の近郊にセカンド・ハウスを持っていて、そこで2家族5人で休養しているという。雑誌にはこの日本人母子の写真や名前も載っているが、日本に向けてそういった情報を公開することをご本人が望んでいるか分からないので、ここで名前などは記さないでおく。とにかく、ジャガルス氏は、被災地からは遠い京都にいて、単身ならばそのままとどまっていただろうが、小さな子供がいるのでとりあえず一時帰国することにしたと語っていた。そして、研究仲間であり家族ぐるみの付き合いをしているその日本人女性に、やはり小さな子供がいるのだからしばらく一緒に日本を離れよう、とジャガルス氏が説得し、二人はジャガルス一家に1日遅れてラトビアに到着したということだ。インタビューでは当然、ではご主人は、となるわけだが、東京で仕事があるので、という答えであった。記事では、日本人はこういう場合でも持ち場を離れることは「自然なことではない」と考えているとし、ジャガルス氏の見た日本人の国民性などについて書かれていた。ラトビア人から見ると、こういうときにも逃げずにとどまっている日本人の姿は、驚くべきもののようである。私も、周りの人々から「あなたもご両親を呼び寄せたら?」と言われ、一瞬本気で考えたことがある。
 さて、彼らは研究活動を続けるため、1か月ほどしたら、つまり4月後半には再びラトビアを離れ、京都に戻る予定だそうである。彼らの今後の成功を祈るばかりである。

 数日前、ロシアのテレビ・ニュースを見ていたら、日本で桜が満開、と報じていた。久々に震災と関連のない話題で、なんだかほっとする。外国のマスコミの関心はもうリビアやコートジボワールに移っていて、日本関連報道は余震とか、原発で何か進展があった時だけになった。今後は日本に関して、いろいろなことを取り上げていってほしいものだ。そして我々も、日本が魅力的な国となるよう努力しなければならない。

2011年1月14日

「私の音楽」が本に!!

 前回の投稿から実に5ヶ月が過ぎてしまった。なんとも言い訳のしようがない。もう読んでくれる人もいないだろう、と思っていたが、実は昨年12月、Yahoo!Japanの海外ニュースでリンクが張られていた。クリスマス・ツリーの発祥地はリーガだったのか、という内容だが、1年以上前の投稿である。しかも、私が書いていたのは、それはどうも怪しいですよという、何とも「夢のない」話であった。リンクをたどって読んでくれた人はいたのだろうか?読んで、がっかりしたのだろうか?
 さて、2007年春に、ラトビア・ラジオの「私の音楽」という番組に出演したことは当時このブログで書いたが、昨年11月、その番組が本になりますよ、というメールがラジオ局のスタッフの方から来た。これにはさすがに驚いた。あの番組には何百人もの人々が出演したはずだ。1冊の本に(1冊なら、だが)掲載しきれるのだろうか。それとも、面白かったのだけ載せるのだろうか。それなら、私のトークはボツになるかもしれない、と思ったが、私がどういう人間か、といっても人間性とか性癖とかではなくて、経歴その他の事実関係を確認したいということで質問が書かれていたので、採用されるようだ。後でわかったのだが、ラトビア・ラジオの第3放送「クラシック」が15周年を迎え、いろいろな記念行事が企画されているのだ。この本もその一環なのだろう。で、返事をしたときに、その本はいつ出るのかときいたら、年明けの予定、とのことだった。
 その後、1月も半ばになり、関係者からまだ連絡がないのだが、先週、出版社のホームページを見てみたら、この本が紹介されていて、先ほど、現物を書店で発見した。700ページ以上ある、とても厚くて、重くて、豪華な本である(1冊である、念のため)。「クラシック」で放送されているいろいろな番組をもとにした章から構成されていて、「私の音楽」の章には、100人あまりが登場している。私はというと、ボツにはなっていなくて、3年半前にしゃべった内容が5ページにわたり(巧みに編集されて)載っている。
 いやはや、本当に驚いた。

2010年8月18日

世界の童話とペレーツィス

 7月にペレーツィス氏と偶然中心部でお会いしたとき、8月に童話の朗読とピアノによる演奏会があるというお話をうかがった。しかもそれは、「童話を思い出しながら―ペレーツィスの音楽の中のラトビア、ロシア、ドイツ、デンマーク、そして東洋の童話の登場人物」と銘打ったもので、非常に興味をそそられた。
 会場はわれわれにはおなじみのリーガ・ラトビア人協会。しかし、日時を後日新聞で確認したら8月10日で、ちょうど母がいるときだったので連れて行ったら、守衛さんが「今日は演奏会はありませんよ」というので外のチラシを見たら、1週間後の17日となっていた。新聞が日付を間違えて告知したのである。私は前にもそういう「被害」にあったことがあるが、それも同じ新聞で、しかもペレーツィス作品の演奏会であった。
 気を取り直して17日、会場に足を運んでみると、今度はちゃんと演奏会の準備をしていた。ペレーツィス氏も来ていたので挨拶をした。本当のことを言えば、童話をモチーフにした(そもそも、今までに聴いたペレーツィス作品の中に標題音楽なんてあっただろうか、と考えてしまった)音楽なのだから、子供向けに書かれたのではないかと思ってしまったのである。しかし演奏が始まるとそれは間違いであることがすぐにわかった。ペレーツィスの音楽は、子供にもわかるし、大人にも十分堪能できるものであることが、このような作品からもうかがえたのである。
 もうひとつは、童話を朗読しながら音楽を演奏するのではないかと思っていたのだが、そうではなかった。
 語り手の女優がまず、ラトビア民話の概要について語り、それからピアノ連弾での演奏が始まる。連弾はビークスネという姓の男女のデュオ(姓が同じなので夫婦かもしれない)で、知らなかったが非常に優れた演奏であった。この作品ではまず、ラトビア民話の10の登場人物が題名となっている小品を、それぞれ語り手の女優が「次は~です」といった後に演奏したのだが、7曲目の「スプリーディーティス」(小人の探検の物語)は、結構長いお話を語った後で演奏した。
 次はロシア民話である。やはり10の登場人物をモチーフとした小品集で、語り手はいくつかの曲の合間だけその民話を朗読した。
 休憩を挟んで第2部は、グリム童話から始まった。1曲目は「赤頭巾ちゃん」だったが、これがペレーツィスの手にかかるとどんな音楽になるか、想像がつくだろうか。これが実に楽しい作品なのである。グリム童話も10の登場人物をモチーフにして語りとピアノ演奏が変わりばんこに行なわれた。
 お次はは東洋の民話と題していて、ひょっとして中国や日本も含まれるのか、と思っていたが、これは全て「アリババと40人の盗賊」の7つのモチーフに沿って書かれた音楽なのであった。最初の曲で少しだけアラブっぽい音階(和声的短音階、っていうんでしたっけ)が使われたが、もう完全にペレーツィスの世界であった。最後がデンマーク、といえばもちろんアンデルセンとなるわけで、雪の女王をモチーフとした1曲であった。
 1曲1曲は非常に短かったが、語りも入っていたので2時間以上かかった。非常に充実した内容とメリハリの利いたよい演奏であった。終演後、ペレーツィス氏に挨拶しに行ったら、あの冷静沈着なペレーツィス氏が、感極まって泣いていたのには少し驚いた。
 この日はラトビア・ラジオが取材に来ていて、演奏会を録音していたので、放送される可能性もある。そうなれば日本でもインターネットで聴けるので、改めてご紹介したい。

2010年8月14日

母、来たる

 このブログを2か月間ほったらかしにしているうちに、ラトビアではもう暑い夏が終わってしまったようである。
 確か7月末のことだったと思うが、西部のベンツピルスでは34.8度を記録した。日本と比べたらどうということはないかもしれないが、この北国においては各地で次々と観測史上最高を記録していた。連日、95年ぶり、いや百年以上ぶりの暑さだ、などと報道されていたのである。最近では、8月15日(日)には短時間、激しい雷雨に見舞われ、その後はカラッと晴れて再び暑くなったのだが、18日は涼しい。暑い夏の好きなここの人々は、もう嬉しくてしょうがないので羽目を外して遊んでしまい、日射病や日焼けのし過ぎ(のことを何ていうんでしたっけ?)、水の事故が多発した。しかしこの記録的な、現地の人々を苦しめつつも喜ばせた暑い夏も、ついに終りか、という雰囲気である。
 2ヶ月ぶりなのでその間の出来事を少し書いてみよう。7月なかばのある日、昼食時に中心部を歩いていたら、作曲家のペレーツィス氏とゼムザリス氏に、約30分おきに立て続けに会った。まったくの偶然で、面白いことである。ペレーツィス氏からは近々の演奏会日程のことを聞いたので、改めて書くとしよう。

 さて、やっと本題である。私の今までの長いラトビア生活で、親類が来たことは一度もなかったのだが、8月前半、ついに母がやってきた。両親が来ることを期待していたのだが、父は仕事の都合で来られなくなってしまったのである。生まれて初めての海外なので、どこに案内しようかといろいろ考えたが、結局普通にリーガ旧市街とアール・ヌーボー建築を見て回り、ユールマラの海岸を散策したぐらいであった。
 美術展はいくつか足を運んだ。リーガ・アート・スペースでは1950~90年のラトビア絵画展をやっていて話題になっていたので、連れて行った。これはちょうどソ連時代である。今となっては、半ば忘れ去られた感のあったこの時代の美術に、光を当てたということになろう。迷路のような展示スペースに非常に多くの絵画が展示されていた。なかなか充実していたが見るのは疲れた。

2010年7月22日

リトワニア旅行

 話が前後するが、7月17日から21日まで、リトワニアのバルト海沿岸地方を旅行した。日本では19日が海の日なので(?)、海を見に行ったというわけである。くしくも3年前、やはり海の日に同じ地域を旅行していて、このブログにも書いたのだが、そのときとは違って今年はクロニア砂洲の中間地点、ロシア領のカリニングラード州に近いニダで1泊することができた。残念ながら今回もロシア領に足を踏み入れることはしなかった。ビザなしで行けたらどんなに良いかと思う。

2010年6月16日

シベリア流刑

 6月14日は、シベリア流刑関連の行事が行われた日である。1941年のこの日、1万5千人もの人々がラトビアから突然連れ去られ、5千人以上が亡くなったといわれている。なお、6月17日はソ連占領の日で、前年、つまり1940年の出来事である。
 この日の晩、最近制作されたばかりのドキュメンタリー映画をテレビでやっていたので見てみた。流刑された経験を持つ人々、宣教師などさまざまな人々からなるグループが、シベリアを訪れ、エニセイ河沿岸のいくつかの村で、ラトビアの人々が流刑されたことを記した銘板を設置した模様を撮影したものである。
 映画自体はその旅の出発から帰還までを淡々と写していたのだが、音楽がその主題によく合っていて非常に強烈であった。最初の方ですぐにこれはバスクスではないかと思ったが、果たしてそのとおりであった。この旅にもバスクスが参加していて、時々ちらりと映っていた。作品名は出ていなかったが、おそらく「ムジカ・ドロローザ」ではないかと思う。

2010年6月2日

再び本をめぐるあれこれ

 ここ数日は大雨が降ったり晴れたりと妙な天気が続くが、気温はおしなべて暖かい。昼間は蒸し暑いといってもよいほどである。
 さて、また同じような話題の繰り返しになってしまうが、最近書店でいろいろな本を見ていて、思ったことをつれづれなるままに書いてみることにしよう。
 ある書店では、言語学の分野の本が何冊か並んでいるのを見かけた。はっきりいって、ラトビアではこの分野の出版事情はいいとはいえない。だからなおさら飛びついたのだが、まず、方言を記録した本が2冊ほどあった。そして、20世紀初頭に活躍したラトビアの2人の言語学者の著作集があった。どちらもけっこう厚い。こういう過去の学者の著作集というのは、さまざまな雑誌や小冊子などに掲載されていた論文を1冊にまとめるだけでも意義があるし、さらに現代の学者(その本の編者でもあろう)による解説があればなお良い。2冊とも解説があった。
 しかし、別の書店にはこんな本もあった。なんと、マルクスの「資本論」のラトビア語訳である。うがった見方をすれば、社会主義を放棄して20年余りになるが、貧富の格差の広がりや最近の経済危機など、資本主義の抱える矛盾を人々が感じ、最も「急進的」だといわれたバルト地域でもマルクスの再評価が始まったのか…ともいえそうである。しかし、この装い新たな「資本論」で新しいのは装い(表紙)だけで、中身をのぞいてみるとソ連時代に翻訳された「資本論」をそのままコピーしたという代物なのである。
 こういう本はソ連崩壊のころ、あらかた処分されてしまい、実は入手がかなり難しい(もっとも、欲しがるのもよほど奇特な人だと思われるが)。だからそのままリプリントして出版してもそれなりの意味があるのかもしれないが、現代の視点からの解説などあっても良かったのではないか。また翻訳するにあたって、ソ連時代と違ったテキストの解釈もありうるのではないか。
 まあ、出版社に罪があるとは思わない。買うか買わないかはこちらに決める権利がある。どのくらい売れるのか、興味のあるところだ。

2010年4月18日

パフォーマンス+音楽+俳句

 3月中旬からずっと投稿していなかったので、3月末に書きかけていたものも今回投稿することにする。当時、氷も雪もほとんど解け、日も長くなって、夏時間が導入された。しかし、たいへんなのは雪解け水であった。大量に積もった雪や氷が、急激な気温の上昇で一気に解けたからである。
 南部のイェルガワという町では洪水になり、もっと南の水力発電所のあるところでは、川の氷を爆薬で粉砕した。ラトビアでは歴史上初めてのことであるそうな。魚など生態系への影響も心配だし、だいいちいくらかかったんだろうと思ってしまう。
 さて、ラトビアで最も有名な(現地在住の)日本人といえば、ラトビア国立オペラ座に所属するバレリーナの三宅佑佳さんであろう。先日(4月半ば)、スーパーで買い物をしていたら、三宅さんの写真が表紙に大きく写っている雑誌を見つけた。日本で言う女性誌だろうか。4ページにわたるインタビューで、内容は一般女性向けのものである。バレリーナとしての日常生活が中心だが、日本人とラトビアの人々を比較して「日本人は外見も行動もみんなそっくりだが、ここの人はみんな違う」と語っているのがユーモラスで楽しい。こういう形で日本人の活躍が紹介されるのは良いことである。
 今回の本題はそのオペラ座での演奏会である。17日、ラトビアラジオのサンドラさんから電話があった。「今日の夕方7時半から、俳句を取り入れた音楽パフォーマンスがあるんですが行きませんか?招待券を置いておきますよ」と誘いを受けた。こういう世界からしばらく遠ざかっていたので、うれしい限りである。パフォーマンスの名称は「軽さ」とでも訳したらよいのだろうか、「エレキでアコースティックな物語」という副題がついている。一体どっちなんだ、と突っ込みを入れたくなる。会場はオペラ座の新ホールで、オペラ座の脇に増築された真新しい建物で、入り口も切符売り場も別である。外観はちょっとバブル期の?ギラギラした感じがするが、内部は小劇場の趣きがあって良い。開演前、すでにミュージシャンの座るいすが並べられ、奥の壁にはスクリーンが吊るされていた。
 バンドの編成はコントラバス、エレキバイオリン、フルート、サクソフォーン、アンサンブル"Altera veritas"、DJである。全体の企画や作曲もコントラバスを演奏したペーテルソンスがてがけ、非常に中身の濃いものであった。
 プログラムには、パフォーマンスのモチーフとなっている全ての日本の俳句のラトビア語訳が掲載されているが、これはおそらく、ソ連時代から俳句の翻訳アンソロジーで有名な故エグリーテ女史のものであろう。それらの俳句が要所要所で後ろのスクリーンに映し出され、録音でその朗読が流れた。
 さて、パフォーマンスはどんなものだったかというと、楽団の席で楽器も何も手にせず座っていた若い男が、音楽が始まると楽団員の間を徘徊し始める。何か人生の悩みを抱えているようだ。舞台の客席から見て、楽団は右側に配置され、左側は空っぽである。男はその左側の空間で踊りだす。そのうち、舞台袖にあるダンボールの山から本を取り出し、投げたりそれらの間でのた打ち回ったりする。突然、尺八のような音が聞こえてきたので楽団の方にちらりと視線を移したら、フルート奏者がアルト・リコーダー(小中学校で習った、あの縦笛です)で尺八のような音を出していた。芸が細かい。スクリーンに映し出される風景も、時々日本の白砂青松の海岸のような情景が映し出され、日本的なものを取り入れようと試みているのがわかる。
 言葉で説明するのは難しいが、非常に面白いパフォーマンスであった。有名なスターが出演するショー的なコンサートよりも、こういう企画の方が手作りの味わいがあってそれでいて、芸術的なレベルは高い。さすがだと感心した。
 このパフォーマンスの上演は4月16日、17日、30日の3回を予定しているが、これだけではもったいない。もっとやればいいのに。