ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2008年10月30日

Buto(舞踏)のその後(1)

 ラトビアにも日本の舞踏(暗黒舞踏)に魅せられ、自らパフォーマンスを行い、熱心にその研究や普及に尽力している人々がいることは、今年の6月、途中まで書いたが(本当は公演の模様を書かないといけないのだが…すみません)、その後の動きを書いてみようと思う。
10月28日、舞踏家の一人であるスィモナ嬢から電話があり、ラトビア公共テレビのインタビューがあるという連絡があった。インタビューは6月に公演が行われた「デザイン工場」というところで、30日の正午からだというので、「僕もあいているから行こうか」といったら、非常に喜んでいた。平日の昼間なので、ダメで元々、ぐらいの気持ちで電話をかけてきたらしい。上演が行われたのと同じ場所で、というのは気が利いていてよい。
 寒い上に雨の降りしきる天気が続き、どうも外出は気が進まないのだが、会場に着いてみると、何とも懐かしい気がするから不思議である。とはいえ、22時を過ぎても明るかった夏の晩、カーテンで内部を真っ暗にしての舞踏パフォーマンスと、秋の昼間ながら陰鬱な小雨の降る中でのテレビインタビューとでは、まったく雰囲気が違う。インタビューを見に行くぐらいの気持ちでいたら(その割にはちゃんとスーツを着て行ったのだが)、車座に8つ椅子が置かれ、司会の男性とスィモナ嬢、スタッフの面々が座っていた。椅子が一つ空いていた。嫌な予感がする。どうやら私の席らしい。
 座談会形式を想定していたのかもしれないが、実際には司会の男性が個別にインタビューすることになり、スィモナ嬢を中心に、舞踏について話が進んでいった。私には、予想はできていたが舞踏が日本でどれほどの人気があるか、という質問があったので、正直なところ大衆的な人気はない、私もラトビアでこういう企画に携わる(というほどのことはしていないのだが)まで知らなかった、と率直に語った。番組の名前は「プロジェクト・人間」といい、放送は11月23日の午後11時で、11月末に舞踏の講演やマスタークラスなどがある、という話があった。しかし、我が家のテレビではなぜかこのチャンネルが映らないというお粗末な理由で、見られなかった。ラジオと違って、インターネットでも見られないので残念である。

2008年10月24日

「ナーラ」

 10月23日、久しぶりにオペラを見に行った。前回オペラ座に足を運んだのはいつだったか覚えていないが、オペラそのものを見たのはひょっとするともう1年半ぶりかもしれない。今回見たのは日本ではあまり有名でないかもしれないが、ドボルジャークのオペラである。でも詳しい人なら、「ドボルジャークのオペラにナーラなんて作品、あったっけ?」と思うに違いない。「ナーラ」というのは、「ルサルカ」(チェコ語で「水の精」、ロシア語も同じ)を、ラトビア語に訳したものだ。といっても、オリジナル通りチェコ語の台本による上演で、ラトビア語と英語の字幕付きである。以前テレビで、この「ナーラ」のリハーサル風景など、まさに舞台裏の模様をやっていて、ぜひ本番を生で見たいと思っていた。
 このブログでドボルジャークのオペラを詳しく説明する必要があるかわからないが、ラトビアの国立オペラについては、音楽的なレベルが高いことは太鼓判を押したい。私はドイツやイタリア、オーストリアのオペラを本場で生で見たことがないので、ラトビアのが相対的にどれほどのレベルか、自信がなかったが、1年半前に東京からさる音楽関係者がリーガに来られて、一緒に見に行ったとき、「音楽的なレベルは高いですね」とおっしゃっていたので、我が意を強くした。

リトワニア語勉強会

 若手歴史学者のK.K.氏が、以前からリトワニア人の先生を招いて勉強会を開いていて、私も度々誘いを受けていたが今まで参加できなかった。今秋は10月中旬から始めたいと言っていたので、初めて参加させてもらうことにした。先生といっても、その時にラトビアに留学している学生などにお願いするので、たいてい若い人で、しばしば代わる。場所は、今学期はラトビア大学の人文学部。久しぶりに行ってみたら、ペンキを塗り替えたりして、大分模様替えされていた。そういえば、学部名も「人文・芸術学部」に変更になっていたのだった。バルト語学科があり、今主任教官を務めているのは若手のリトワニア人言語学者のE.トルンパ氏である。偶然トルンパ氏に久しぶりに会ったので、「リトワニア語の勉強会に行くんですよ」といったら、「ああ、そこの教室だよ、でも、初心者向け講座だから君には簡単すぎるんじゃないの?」いや、リーブ語と同様、知識が錆びついてしまっているので、初級レベルからやり直したほうがいいと思ったのだ。
 K.K.氏が「週1回になるけど、何曜日がいい?」ときいてきたので、私が「月曜日(リーブ語講座がある)以外なら何曜日でもいいけど、水曜日だったらいいかも」という趣旨のことを、すごく遠慮していったつもりだったが、その通り水曜日になってしまった。いいのだろうか。現役の学生(専門は様々)、編集者、翻訳会社をやっているロシア人、フォークロア研究者など多種多様な人々が集まった。
 先生は若い女性が二人。もちろんいずれもリトワニア人で、ラトビアに留学している。一人は結構ラトビア語が話せるが、もう一人はかなり苦労していた。生徒のレベルにばらつきがあり、まったくの初学者と、ある程度勉強してきた人とがいるので、次回から2クラスに分けることにし、みんな自己紹介などをして初回の授業は終わった。

リーガ・ラトビア協会140周年行事

 リーガ中心部の、ラトビア大学本部校舎と音楽アカデミーの間に、リーガ・ラトビア協会という施設がある。建物自体は3つ並んでいるが、出入口はみんな違う通りに面している。以前、ここにもコメントをくださっているある方から、「たとえば、他国のラトビア移民の団体が『ラトビア協会』を名乗るのならわかるが、ラトビア国内にラトビア協会があるなんて、変じゃないかね」というご指摘(?)を受けたが、この協会は帝政ロシア時代に作られたので、ラトビア人がまだ自分の国を持っていないときにこういう名前の団体を作ったと知れば、一応納得がいくのではないだろうか。
 ラトビア協会は創立140周年を迎える。現在の会長はルームニエクス氏という作家で、歴史ものの長編小説などを書いているほか、詩人A.チャクスの全集を編纂に携わった(去年11月のブログ参照)。同協会には様々な部門があり、音楽や言語のことをやっている部門もある。館内にきれいに修復されたホールがいくつかあり、文化行事やコンサートなどが頻繁に行われている。音楽部門は、私もかつていろいろイベントを手掛けた時にお世話になった。私が話をつけると、無料で使わせてくれることもあるのである(関係者への謝礼は必要だが)。そのほか言語のことをやっているグループとも、かかわりを持っているので、10月21日に彼らが企画した、ラトビア大学人文芸術学部のクルスィーテ教授の講演を聴きに行くことにした。
 クルスィーテ教授は女性で、主な研究分野はフォークロアや詩などであるが、とにかく大変な碩学であり、多くの著書をものしている。最近まで長らく学部長を務めていた。民族主義的な考え方を強く持っているが、私の見るところバランスが取れており、ロシアやアジアの文化などにも一通りの知識を持っている。大教室での講義でも、私がいると必ず日本の話をする。時々難しい質問をしてくるので、講義を聴くだけでも身構えてしまうのだが、学問とは本来受け身でするものではないのだからこれは正しい。でも私には大変である。
 クルスィーテ教授はまずいつものように、マクラに私のことを話題にし(一番後ろに座っていたのに気づかれてしまった)それから本題のラトビア協会の文化活動に触れて、そのユニークな出版の歴史などについて話をした。ラトビア協会の歴史はそのまま、ラトビア人の民族意識覚醒、文化復興の歴史である。その後、講演会の主催者である言語グループのメンバーとの討論になり、彼らを中心に、ソ連時代に「ゆがめられ」、独立後もそのままになっている正書法規則を戦前のものに戻す主張が繰り広げられた。これについてはあまりに専門的になるので詳しくは別の機会に譲るが、簡単にいえば新かなづかいを旧かなづかいに戻そうとするようなものである。しかし、日本語の旧かなづかいは実際の発音とかけ離れてしまっており、これを復活させるのは現実的ではないが、ラトビア語の旧正書法は、現代語の発音や文法と照らし合わせてもある程度の合理性を持っており、たとえば外国人が初めからこれで勉強すれば、文法の基礎がしっかりしていれば殆ど何の苦もなく習得できるだろう。私もそれほど困難さを感じない。しかし、ソ連時代以降、現在に至るもラトビアで教育を受けた世代には、ある程度の困難を伴うようである。私は個人的に、どちらに軍配を上げるかといえば、中立であるとしか言いようがない。以前、ニューヨークの亡命ラトビア人の雑誌に記事を書いたことがあるが、新正書法で原稿を書いて送ったら「本誌の方針で、旧正書法に書き換えますけどよろしいですか?」と問い合わせがあったので「どうぞ、どうぞ」と言って直してもらったものだ。読む分には決まった規則に従って置き換えて読めばいいので全く問題ないが、正しく書くのは注意が必要である。詩人のブルーベリスはやはりこの旧正書法で詩を書いて文芸誌に発表したことがあるが、戦前の正書法辞典を時々引いて確認しないといけないと言っていた。また、その正書法をめぐって編集者と喧嘩にもなったという。旧正書法の本格的な復活への道のりは、まだまだ険しそうである。

2008年10月14日

リーブ語教室

 ソ連時代を中心に活躍したラトビアの伝説的大女優、ビヤ・アルトマネ女史が亡くなったというニュースが入ってきた。テレビで関連ニュースを見ていたら、何とロシアのメドベージェフ大統領の名で弔電(手紙だったかも)が来たという。ラトビアだけでなく、ソ連全土にその名を知られた、往年の大スターであったことを示すものだ。その後の報道を見ていたら、葬儀はリーガ中心部の東方正教会でしめやかに営まれ、数千人が参列したため周辺の公共交通は運休または経路変更となり、ロシアのマスコミはこぞってアルトマネを称賛したが、ラトビアに対しては批判的であった、等々。
 さて、毎週月曜日の夕方、社会統合省というところでリーブ語教室が開かれている。「社会統合省」というのは、少数民族や同性愛者など、社会のマイノリティの問題を扱う政府機関で、リーブ民族を担当する部署もある。が、すでに書いたように、今年いっぱいで廃止が決まっているので、どうなるか心配である。今のところ、リーブ語教室には誰でも参加でき、社会統合省が講師に給料を払っている(はずな)ので、受講料は何と無料である。夏休みが明けて、何の話もない上、省の廃止が決まったので、どうなることかと関係者はやきもきしていたが、10月13日から新学期が始まることになった。私は以前ラトビア大学でリーブ語を習い、その後この講座で引き続き勉強したのだが、月曜の夕方には用事が入ってしまうことが多いので、断続的にしか参加できない。覚えては忘れ、を繰り返していて恥ずかしい限りなのだが、今は時間的余裕があるので新学期の授業に参加することにした。
 普段、授業は6時から7時まで初級、7時から8時まで中級(「より賢い人のための授業」と言っている)である。この日は初回だったのと、絵画展などいろいろなイベントがあったので、それに関連してスピーチ(中級の先生は最初リーブ語で、そのあとラトビア語で挨拶した)ミニ合唱コンサートなどが開かれ、お茶とお菓子で歓談した。われわれ中級はそれから授業というのも変である。どうも初級の授業はその時に先生が「挨拶の言葉を覚えましょう」といって自己紹介の文などを教え、それで終わってしまったらしい。
 中級はたいてい顔馴染みがいるのだが、今回はその世界(?)の大物が二人いるので驚いた。と言っても二人とも20代の若い男性である。一人はスタルト家という音楽一家に生まれ育ち、自ら民族音楽グループや民族工芸制作の活動をし、また両親ともども政治にもかかわっている人物である。彼の祖父はリーブ語で詩も書いていたので「君は習わなくてもできるだろう」とみんなに言われていたが、12歳でその祖父が亡くなるまでリーブ語を聴いて育ったものの、きちんと勉強しなおしたいという。もう一人は写真家でかつコントラバス奏者という異才で、もともとリーブ語に触れる機会はなく、長じてリーブ人のルーツを知り自分で勉強したという。ラトビア人はたいてい、多かれ少なかれリーブ人の血を引いているというから、授業の参加者の中でまったく彼らの血をひいていないのは私ぐらいのものだろう。しかも久し振りだというのに、私にも容赦なく質問が浴びせられた。しどろもどろで答えるのがやっとだったので「しばらく来ない間に、大分忘れちゃったねえ(苦笑)」と言われてしまった。がんばって思い出さねば。

2008年10月10日

現代ラトビア・オルガン音楽コンサート

 9月末、トルコのイスタンブールを旅行した。リーガからは直行便が毎日出ており、所要3時間と便利である。この旅行について書いても、ブログの趣旨から逸脱してしまうだろうし、日本人によるイスタンブール旅行記は本も出ており、インターネット上にも山ほどあるので特に書くつもりはないが、20世紀初頭に西欧近代化を成し遂げたとはいえ、やはりイスラム教が息づいている国であり、私にとっては初めてのイスラム圏訪問で、興味深いものがあった。ある土産物店に入ってみたら、経営者が日本人女性で、そこの客にラトビア人夫婦がいたというのは、何かの因縁だろうか。
 さて、10月10日、バスクスの作品を中心とした現代ラトビア作曲家らのオルガン作品を聴く機会があった。会場は言わずと知れたリーガ大聖堂。リーガでオルガンが聴ける教会は他にもあるが、何といってもここ大聖堂が本場である。入口にバスクス氏本人が立っていて、挨拶して少し話をした。
 1曲目はそのバスクスのCantus ad pacem(ラテン語で「平和の歌」)という1984年の作品。この作品のCDが出たので、コンサートはそのプレゼンテーションを兼ねている。2曲目は女性作曲家エインフェルデの『アベ・マリア』。わかりやすい旋律の曲である。続いてカルソンスが、独フォルストの教会塔修復を記念して献呈した「幻想曲とパッサカリア」という1992年の作品。その次は、この演奏会で唯一の故人の作曲家で、作家などとしても活躍した才人マルギェリス・ザリンシュ(1993年没)の組曲『クルゼメ風バロック』より『エードレのクーラント』。エードレは、西部クルゼメ地方の小都市で、瀟洒な教会がある美しい町である。バロックの様式ながら、ラトビア農民の土俗的な雰囲気もあわせもった好もしい作品。最後はバスクスに戻り、2005年に作曲されたCanto di forza(あえて訳せば『力の歌』とでもなろうか。たぶんイタリア語)。率直にいえば、最初の『平和の歌』が曲名から想像のつかない、つかみどころのない作品であったのに対し、この『力の歌』は、荘厳さに満ちあふれた立派な作品であり、日本で演奏される機会があってもいいのではないかと思った。実はこれには別の編曲があり、なんと日本でも有名なベルリン・フィルの12人のチェロ奏者に捧げられている。彼らの演奏でも聴いてみたいものだ(そちらの初演は2005年秋とのこと)。