14日(土)から16日(月)までの3日間、久しぶりに国外を旅行した。といっても隣国リトワニアである。国内旅行のように気軽だが、パスポートは必要だし、言葉の問題も少々ある。
以前、知人がバスをチャーターしてラトビアの地方や、エストニアのタルトゥに行ったことはあるが、旅行会社が企画するバスツアーの類に参加するのはこれが初めてである。リトワニアの首都ビリニュスや、第二の都市カウナスには何度も行っているが、今回は初めて、この国のバルト海沿岸地方に足を踏み入れた。
リトワニアはどちらかというと内陸に発展した国である。正確に言えばリトワニア大公国時代、最も栄えたビータウタス大公の最大版図は黒海沿岸、つまり現在のウクライナに達していたから、海に興味がなかったというわけではないが、歴史的背景が海に向かって発展したエストニアやラトビアとはずいぶん違うのである。最大の港湾都市クライペダは第3の都市で、人口は10数万である(うろ覚えです、すみません)。この地域で面白いのは、ロシア領になっているカリニングラードから、大陸に平行して細長い砂洲(さす)が伸び、クライペダ沖にまで達していることだ。何も知らずに見たら河だと思うかもしれないが、内海である。もっともこういう書き方はイメージで、実際には海水の浸食により出来上がった地形である。大げさに言えば天下の奇観で、ユネスコ世界遺産に指定された。日本でも某民放の世界遺産の番組で取り上げられ、そこでは「クルシュー砂洲」と呼んでいた。間違いではないが、クルシューとは「クルシ(かつて住んでいた部族の名)の」という意味なので、それよりもクロニア(クルシ人の住む土地)砂洲と呼んだ方がいいような気もするが、迷うところである。
この地域には以前から興味を持っていた。友人や大学の先生方(ラトビアの)が、調査旅行をしており、その成果の発表を何度か聞いたからである。元々この地域の住民は民族移動の関係で、リトワニア領内にいながら話す言語(方言)はラトビア語により近いものであった。ドイツ人が調査して研究書を出したことがあり、取り寄せて調べてみると確かによく似ている。残念ながら現在、その話し手は非常に少ないという。また、この地域は数百年前に滅びた言語の話し手達の居住地域とも重なり、ますます興味を引かれるのである。
旅行会社で尋ねてみると、夏はほぼ毎週末、ツアーが組まれている。リゾート地としての方が有名なのだ。ツアーのコースなどを確認し、申し込むときに一つ確認してもらった。「2日目の午後、クライペダの中心部で降りられますか?」可能だということなのでお金を払って申し込んだ。
14日午前7時。休日でもこういうときはきちんと早起きできるから不思議なものだ。夏ということで中央駅周辺には多くの観光バスが出発を待っていた。ガイドさんが参加者を確認して、出発したが、ガイドが全てロシア語なのには少々驚いた。ラトビア人は半数ぐらいいたと思うが、みんなロシア語に堪能だし、誰も文句を言わない。この国は今でもこういうことがある。
リーガからほぼ南へまっすぐ、国境を越えるとまもなく商業都市シャウリャイの郊外にある「十字架の丘」に到着した。ガイドブックには必ず載っている名所で、文字通り物凄い数の十字架が集まっている。多くがヨーロッパからのものだが、日本語や中国語で人名などが書かれたものがある。もっともどこから持ち寄られたのかは分からないが。周囲にはまったく何もなく、お土産を売る人々が何人か露天を連ねているだけである。
シャウリャイの中心部へ戻る。特に見所はなく、小休止した後、いよいよ海の方へと向かう。クライペダの北方、ラトビア国境寄りに、パランガという人気リゾート地がある。私はリゾート地には興味がないから、14時過ぎに着いて21時まで、7時間近くも自由時間だというから困ってしまった。まず、ガイドさんと一緒に琥珀博物館に行き、その周りの植物園や海岸を散歩して、食事をし、コンサートを聴いた。私の場合、こういうところに来ても、コンサートである。ファゴット四重奏というから、どんなものかと思っていたが、なかなか趣向が凝らされていて面白かった。リゾート地だからか、テーブルが設けられ、お酒やお茶を飲みながらコンサートが楽しめる。トップの人がおしゃべりをするのだが、国際的リゾート地なのでロシア語も交えていた。私はリトワニア語はよくわからないのでこれは助かった。
21時になりみんな集合、ここからクライペダ近郊のゲストハウスまでは30分ほどかかった。旅行会社が取っていた部屋は全て二人部屋で、私は一人だったので部屋の割り振りに困り、「運転手のニコライと一緒でお願いします」ということになった。日本では考えられないが、こちらでは十分ありうることだ。しかしものは考えようである。運転手さんと一緒の部屋なら、寝坊して乗り遅れる心配はない。
翌15日(日)。朝8時半出発と早く、盛りだくさんの内容であった。クライペダ市街地から砂洲まで橋がかかっていないので、フェリーで渡る。といっても甲板に自動車を乗せるだけの小型の船である。乗客は降りてもよいが、数分で対岸に着いてしまう。ここからひたすら砂洲を南下する。いくつかの集落で降りて見学した。ほぼ中央のユオドクランテ(リトワニア語で「黒い岸」の意味)では、ユニークな木の彫刻の立ち並ぶ小道が森の中にあり、ガイドさんが丁寧に説明してくれた。
最南端の地点はニダという。最南端といっても、リトワニア領の、である。あと数キロでロシアの飛び地、カリニングラード州との国境になる。ロシア領に入るにはビザが必要なので、いつかビザを取ってカリニングラード市を訪れ、砂洲を通ってリトワニア領まで縦断してみたいものだ。このニダで昼食休憩なのだが、駆け足で日帰りでこの砂洲を回る我々には、短時間でさっと食事ができるところがあまりない。多くの人々が何日もここでのんびり過ごすからだ。それで、ソ連時代からまったく変わっていないと思われる食堂に入った。しかし味は悪くない。休憩は1時間しかなく、折り返しクライペダ方面へ戻った。日本で出ているガイドブックには載っていないようだが、ニダにはドイツの作家トーマス・マンの別荘がある。行ってみたかったが、「遠いので時間的に無理です」といわれ、諦めた。
砂洲の最北端には水族館がある。水族館なんて久しぶりだ。童心に帰った気分だが、大人になっても勉強になる。それに、日本とは生態系が違うのだ。その後、この地の名物のひとつ、イルカショーを見た。こういうのは日本で見たことがないので、よく訓練されているものだと感心した。
皆かなり疲れている様子、あとはリーガへ帰るだけである、私を除いては。ガイドさんに別れを告げ、バスの荷物室からスーツケースを取り出して一人クライペダで下車した。他のツアー参加者はあっけにとられた顔をしていたり、手を振ってくれたりした。
それから私は予約しておいた安宿にチェックインし、すぐ近くのバスターミナルや駅の方を回って中心部や旧市街を散策した。旧市街のひとつの中心は「市場」と呼ばれている広場だが、ここでジャズ・フェスティバルをやっていた。といってもエスノ・ジャズというのか、民俗音楽を下地としたジャズで、聴いていてなかなか面白く、大勢の人が詰め掛け大変な盛り上がりようであった。その近くのレストランで食事をしていたら、隣のテーブルで8人ぐらいの男性のグループが、なんとなくわかるようでわからない言葉で談笑していたので、尋ねてみたらブルガリアからのビジネスマンだという。ロシア語や英語を交えおしゃべりを楽しんだ。ブルガリア語はスラブ系で、ロシア語と同系統だが私にはところどころ、いくつかの単語が断片的に聞き取れる程度である。ブルガリアは社会主義時代、いわゆる東側諸国の中でも特に親ソ的だったとかで、ロシア語に堪能な人も多いらしい。私の隣に座っていたおじさんは首都ソフィアに住んでおり、特にロシア語がよくできた。
ビールを飲み(飲まされ)いい気分でレストランをあとにした私は、再び鉄道駅へ引き返し、明日の列車の切符を買っておこうと思ったが、夜10時に閉まったあとだった。リトワニア第三の都市だというのに、寂しい駅である。日曜の晩とはいえ歩く人もまばらだ。仕方がないので宿に戻り、早めに寝た。
翌朝、何故か5時前に眼が覚める。6時前にもう宿を出て駅に向かうが、現金の持ち合わせがないのでATM(とは少し違うが)を探す。しかし駅周辺のどこにもない。6時10分になり切符売り場が開く。既に行列ができており、様子を見てみると、もうひとつ部屋がありそこではクレジットカードで切符が買える。助かった。ここでビリニュス行きの列車の切符を購入。
クライペダ・ビリニュス間の旅客列車は1日2往復しかない。約400kmの距離を5時間近くかけて走る。非電化区間があるのでディーゼル機関車が客車6両を牽引して走る。途中第二の都市カウナスの付近を通るが、遠回りになるせいかカウナスへは行かない。これで利用客がいるのかと思っていたが、乗車率は結構高かった。バスより安く快適だからだろう。どんな列車かまったく予備知識がなかったが、車内は改装されておりとても綺麗で、行き先などの電光表示まである。ただ、座席の向きを変えられないのと、座席と窓の間隔が一致していないので、席によっては進行方向後ろ向きになったり、景色が見えなかったり、という難点がある。おそらく、車両によって窓配置が違うところを、同じ規格で座席を作って並べてしまったのだろう。しかし、コーヒーのサービスがあるのには驚いた。
昼前、列車は定刻どおりビリニュスに到着。すぐに18時発リーガ行きのバスの切符を買い、荷物を預けて町へ出る。何度も訪れているビリニュスだが、今回は書店めぐりだけである。10数冊本を買い込み、20分以上遅れたバスでリーガへ戻った。