ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2007年7月30日

シベリアに生きる人々

 26日、自然博物館にて、シベリアに住むラトビア人とその調査に関するプレゼンテーションが行われた。
 ラトビア人といっても、彼らの出身地は東部ラトガレ地方で、独自のアイデンティティを持ち、独自の方言を話す「ラトガレ人」である。貧しい農民が多く、ロシア化(一時はポーランド化)が進み、他地域からは遅れた地域という偏見を持たれているが、「ラトビア」という名称自体が「ラトガレ」を起源とすることはほぼ間違いない。
 シベリアにはラトビア人や「ラトガレ人」の集落がいくつか存在する。シベリアというとソ連時代の過酷な流刑を想像するが、彼らはそうではなく、大体19世紀末から20世紀初頭にかけて、自らシベリアへ渡った開拓民の子孫なのである。
 今回、本国に住む研究者らが、以前から現地調査をしてきたシベリアのラトガレ人を招待し、ラトビアの各地を見てもらおうということで、リーガの自然博物館では、スライドの上映と彼らのちょっとした歌と踊りの披露などがあった。さまざまな世代の女性たちであったが、中年の人々はラトガレの言葉を話すものの、若い世代はロシア語しか話せないか、聞いて理解するだけになっている。中年世代のラトガレ方言も、かなりロシア語の単語が混じり、チャンポンといってもいいような不思議な言葉になっている。
 国内では、ラトガレ人がリーガなど都会に出てくるとラトガレ方言で話すのを恥ずかしがる(こういう点では日本の東北地方に似ている。ちなみに私もルーツは東北だ)ため、こういうイベントではみんな嬉々としてラトガレ方言を話していた。
 彼らはラトビアに帰国する意思はないのだろうか、という疑問がわいてくるが、帰還事業はあまり本格化していないようで、また社会に適応するのも難しいらしい。いろいろなことを考えさせられるイベントであった。
 

2007年7月18日

リトワニア旅行

 14日(土)から16日(月)までの3日間、久しぶりに国外を旅行した。といっても隣国リトワニアである。国内旅行のように気軽だが、パスポートは必要だし、言葉の問題も少々ある。
 以前、知人がバスをチャーターしてラトビアの地方や、エストニアのタルトゥに行ったことはあるが、旅行会社が企画するバスツアーの類に参加するのはこれが初めてである。リトワニアの首都ビリニュスや、第二の都市カウナスには何度も行っているが、今回は初めて、この国のバルト海沿岸地方に足を踏み入れた。
 リトワニアはどちらかというと内陸に発展した国である。正確に言えばリトワニア大公国時代、最も栄えたビータウタス大公の最大版図は黒海沿岸、つまり現在のウクライナに達していたから、海に興味がなかったというわけではないが、歴史的背景が海に向かって発展したエストニアやラトビアとはずいぶん違うのである。最大の港湾都市クライペダは第3の都市で、人口は10数万である(うろ覚えです、すみません)。この地域で面白いのは、ロシア領になっているカリニングラードから、大陸に平行して細長い砂洲(さす)が伸び、クライペダ沖にまで達していることだ。何も知らずに見たら河だと思うかもしれないが、内海である。もっともこういう書き方はイメージで、実際には海水の浸食により出来上がった地形である。大げさに言えば天下の奇観で、ユネスコ世界遺産に指定された。日本でも某民放の世界遺産の番組で取り上げられ、そこでは「クルシュー砂洲」と呼んでいた。間違いではないが、クルシューとは「クルシ(かつて住んでいた部族の名)の」という意味なので、それよりもクロニア(クルシ人の住む土地)砂洲と呼んだ方がいいような気もするが、迷うところである。
 この地域には以前から興味を持っていた。友人や大学の先生方(ラトビアの)が、調査旅行をしており、その成果の発表を何度か聞いたからである。元々この地域の住民は民族移動の関係で、リトワニア領内にいながら話す言語(方言)はラトビア語により近いものであった。ドイツ人が調査して研究書を出したことがあり、取り寄せて調べてみると確かによく似ている。残念ながら現在、その話し手は非常に少ないという。また、この地域は数百年前に滅びた言語の話し手達の居住地域とも重なり、ますます興味を引かれるのである。
 旅行会社で尋ねてみると、夏はほぼ毎週末、ツアーが組まれている。リゾート地としての方が有名なのだ。ツアーのコースなどを確認し、申し込むときに一つ確認してもらった。「2日目の午後、クライペダの中心部で降りられますか?」可能だということなのでお金を払って申し込んだ。

 14日午前7時。休日でもこういうときはきちんと早起きできるから不思議なものだ。夏ということで中央駅周辺には多くの観光バスが出発を待っていた。ガイドさんが参加者を確認して、出発したが、ガイドが全てロシア語なのには少々驚いた。ラトビア人は半数ぐらいいたと思うが、みんなロシア語に堪能だし、誰も文句を言わない。この国は今でもこういうことがある。
 リーガからほぼ南へまっすぐ、国境を越えるとまもなく商業都市シャウリャイの郊外にある「十字架の丘」に到着した。ガイドブックには必ず載っている名所で、文字通り物凄い数の十字架が集まっている。多くがヨーロッパからのものだが、日本語や中国語で人名などが書かれたものがある。もっともどこから持ち寄られたのかは分からないが。周囲にはまったく何もなく、お土産を売る人々が何人か露天を連ねているだけである。
 シャウリャイの中心部へ戻る。特に見所はなく、小休止した後、いよいよ海の方へと向かう。クライペダの北方、ラトビア国境寄りに、パランガという人気リゾート地がある。私はリゾート地には興味がないから、14時過ぎに着いて21時まで、7時間近くも自由時間だというから困ってしまった。まず、ガイドさんと一緒に琥珀博物館に行き、その周りの植物園や海岸を散歩して、食事をし、コンサートを聴いた。私の場合、こういうところに来ても、コンサートである。ファゴット四重奏というから、どんなものかと思っていたが、なかなか趣向が凝らされていて面白かった。リゾート地だからか、テーブルが設けられ、お酒やお茶を飲みながらコンサートが楽しめる。トップの人がおしゃべりをするのだが、国際的リゾート地なのでロシア語も交えていた。私はリトワニア語はよくわからないのでこれは助かった。
 21時になりみんな集合、ここからクライペダ近郊のゲストハウスまでは30分ほどかかった。旅行会社が取っていた部屋は全て二人部屋で、私は一人だったので部屋の割り振りに困り、「運転手のニコライと一緒でお願いします」ということになった。日本では考えられないが、こちらでは十分ありうることだ。しかしものは考えようである。運転手さんと一緒の部屋なら、寝坊して乗り遅れる心配はない。

 翌15日(日)。朝8時半出発と早く、盛りだくさんの内容であった。クライペダ市街地から砂洲まで橋がかかっていないので、フェリーで渡る。といっても甲板に自動車を乗せるだけの小型の船である。乗客は降りてもよいが、数分で対岸に着いてしまう。ここからひたすら砂洲を南下する。いくつかの集落で降りて見学した。ほぼ中央のユオドクランテ(リトワニア語で「黒い岸」の意味)では、ユニークな木の彫刻の立ち並ぶ小道が森の中にあり、ガイドさんが丁寧に説明してくれた。
 最南端の地点はニダという。最南端といっても、リトワニア領の、である。あと数キロでロシアの飛び地、カリニングラード州との国境になる。ロシア領に入るにはビザが必要なので、いつかビザを取ってカリニングラード市を訪れ、砂洲を通ってリトワニア領まで縦断してみたいものだ。このニダで昼食休憩なのだが、駆け足で日帰りでこの砂洲を回る我々には、短時間でさっと食事ができるところがあまりない。多くの人々が何日もここでのんびり過ごすからだ。それで、ソ連時代からまったく変わっていないと思われる食堂に入った。しかし味は悪くない。休憩は1時間しかなく、折り返しクライペダ方面へ戻った。日本で出ているガイドブックには載っていないようだが、ニダにはドイツの作家トーマス・マンの別荘がある。行ってみたかったが、「遠いので時間的に無理です」といわれ、諦めた。
 砂洲の最北端には水族館がある。水族館なんて久しぶりだ。童心に帰った気分だが、大人になっても勉強になる。それに、日本とは生態系が違うのだ。その後、この地の名物のひとつ、イルカショーを見た。こういうのは日本で見たことがないので、よく訓練されているものだと感心した。
 皆かなり疲れている様子、あとはリーガへ帰るだけである、私を除いては。ガイドさんに別れを告げ、バスの荷物室からスーツケースを取り出して一人クライペダで下車した。他のツアー参加者はあっけにとられた顔をしていたり、手を振ってくれたりした。
 それから私は予約しておいた安宿にチェックインし、すぐ近くのバスターミナルや駅の方を回って中心部や旧市街を散策した。旧市街のひとつの中心は「市場」と呼ばれている広場だが、ここでジャズ・フェスティバルをやっていた。といってもエスノ・ジャズというのか、民俗音楽を下地としたジャズで、聴いていてなかなか面白く、大勢の人が詰め掛け大変な盛り上がりようであった。その近くのレストランで食事をしていたら、隣のテーブルで8人ぐらいの男性のグループが、なんとなくわかるようでわからない言葉で談笑していたので、尋ねてみたらブルガリアからのビジネスマンだという。ロシア語や英語を交えおしゃべりを楽しんだ。ブルガリア語はスラブ系で、ロシア語と同系統だが私にはところどころ、いくつかの単語が断片的に聞き取れる程度である。ブルガリアは社会主義時代、いわゆる東側諸国の中でも特に親ソ的だったとかで、ロシア語に堪能な人も多いらしい。私の隣に座っていたおじさんは首都ソフィアに住んでおり、特にロシア語がよくできた。
 ビールを飲み(飲まされ)いい気分でレストランをあとにした私は、再び鉄道駅へ引き返し、明日の列車の切符を買っておこうと思ったが、夜10時に閉まったあとだった。リトワニア第三の都市だというのに、寂しい駅である。日曜の晩とはいえ歩く人もまばらだ。仕方がないので宿に戻り、早めに寝た。
 翌朝、何故か5時前に眼が覚める。6時前にもう宿を出て駅に向かうが、現金の持ち合わせがないのでATM(とは少し違うが)を探す。しかし駅周辺のどこにもない。6時10分になり切符売り場が開く。既に行列ができており、様子を見てみると、もうひとつ部屋がありそこではクレジットカードで切符が買える。助かった。ここでビリニュス行きの列車の切符を購入。
 クライペダ・ビリニュス間の旅客列車は1日2往復しかない。約400kmの距離を5時間近くかけて走る。非電化区間があるのでディーゼル機関車が客車6両を牽引して走る。途中第二の都市カウナスの付近を通るが、遠回りになるせいかカウナスへは行かない。これで利用客がいるのかと思っていたが、乗車率は結構高かった。バスより安く快適だからだろう。どんな列車かまったく予備知識がなかったが、車内は改装されておりとても綺麗で、行き先などの電光表示まである。ただ、座席の向きを変えられないのと、座席と窓の間隔が一致していないので、席によっては進行方向後ろ向きになったり、景色が見えなかったり、という難点がある。おそらく、車両によって窓配置が違うところを、同じ規格で座席を作って並べてしまったのだろう。しかし、コーヒーのサービスがあるのには驚いた。
 昼前、列車は定刻どおりビリニュスに到着。すぐに18時発リーガ行きのバスの切符を買い、荷物を預けて町へ出る。何度も訪れているビリニュスだが、今回は書店めぐりだけである。10数冊本を買い込み、20分以上遅れたバスでリーガへ戻った。

山野楽器ホームページ

何度も書いている北條陽子さんのCDだが、
販売している山野楽器のホームページで紹介されている。

http://www.yamano-music.co.jp/docs/shops/ginza/index2f.html

嬉しいことにペレーツィスのことが詳しく書かれている。ぜひともご覧いただきたい。

2007年7月9日

花嫁祝福パーティー

 知人のL嬢と、ずいぶん久しぶりに連絡を取り合った。彼女の女友達が結婚するので、披露宴とは別に女友達だけで集まる(ラトビア人にはそういう習慣がある)から、ちょっと「出演」してほしい、というのである。L嬢が考えたのは、折鶴を折る実演をするというものだ。我々海外にいる日本人の多くは、折り紙は外国で受けるものとしてしばしば披露した経験がある。知らない人の結婚なんて、とは思ったが、なんとなく楽しそうかもしれないと引き受けた。
 先週土曜日、午後8時15分に、中心部の「ライマの時計」(ライマは当地のチョコレート菓子メーカーで、その時計塔が有名な待ち合わせ場所になっている)で待ち合わせることになった。その2時間ほど前、L嬢から電話があり、「花嫁に白いバラをプレゼントするといいと思うの。用意して待ってて」やれやれ、日本男児はこういうのが苦手である。仕方がないので近くで白いバラを買い(言われたとおりのことしかできない…)、所在無げに待っていた。外国人の男が独りで、花を持って人の多い週末の中心部で立っているというのは、なんとも気恥ずかしいものである。
 ちょうど8時15分、派手な塗装のバスが止まった。結婚式のイベントなどで、普通の自動車に思い思いの塗装(というか落書き)をしたのをたまに見かけるので、その手の車か、それにしても、タネ車は普通の路線バスとしか思えない。最初人ごとのように思っていたが、これがもしや、といやな予感がした。すると運転席脇のドアが開き、L嬢が下りてきた。「さあ、乗って!」恥ずかしさのピークである。乗ってみると、内装は派手に改造してあるが、どう見ても路線バスである。前方にはテーブルが据え付けてあり、奥にパーティードレスを着た華やかな女性たちが10人ほどいて、シャンペンなどを飲み盛り上がっている。禁断の花園に足を踏み入れた気分だ。
 日本人の珍客を乗せたバスは再び走り出した。そして一番奥にいた花嫁を紹介された。ものすごい美人である。私は白いバラを彼女に渡した。拍手と黄色い声の嵐。しかし残念ながら、彼女は私と結婚するわけではない。L嬢は鶴の折り方を知っているが、花嫁は知らないので、私が教えて一緒に折り、皆に見せるということになった。その後、L嬢が既に折って準備していたたくさんの鶴を、天井の換気用窓を開けて外に放り投げていた。花嫁が、皆の幸せを(ついでの私の幸せも)祈りながら、である。公衆の迷惑にならないかと思うが、結婚のイベントだと大目に見てもらえるのだろうか。
 私の短時間のパフォーマンス(というほどのものではないが)はなんだか訳のわからないまま終了し、リーガ西方のユールマラという海岸リゾートにある、駅の前で降ろされた。お祝い事ということで、「これ、足代ね」と、謝礼をもらってしまった。何もしていないのに、いいのだろうか。ここから電車で戻ればリーガ中央駅まで30分くらいである。でも、ここにはちょっと知っている場所があるので立ち寄ってみた。
 「民話の家ウンディーネ」である。木造のメルヘンチックな建物に、民芸品のようなものが所狭しと飾ってある。庭も同様で、毎週ではないが週末によくイベントをやっている。そのちょっと怪しげな雰囲気に、知らない人が見たら新興宗教団体の施設かと思うだろうが、そうではない(多分)。エコ・ツーリズムに取り組んでいるらしく、EUから補助金などももらっているらしい(違うかも)。運営もさまざまな人がかかわっており、緩やかに連携しているようだ。この日は特にイベントなどはないようだったので、海辺を散歩してから電車でリーガに戻った。また何かあったらこの施設のことを取り上げるかもしれない。

2007年7月1日

スィグルダでの「3B」コンサート

 7月1日まで、渋谷の東京田中千代服飾専門学校spaceCTCで開かれていた、川村ちかこさんの創作バッグ展示会にて、北條陽子さんのCDがBGMで流れていたらしい。私は直接知らず、関係者から先ほど聞いて知った。もう最終日なので残念ながら事後報告になってしまった。
 さて、ヨーロッパでは夏になるとコンサートやオペラ、演劇はシーズンオフで、夏休みを利用して旅行する日本人には不満なのであるが、その代わりリゾート地でのフェスティバルなどの行事は行われている。日本でも人気の世界的バイオリニスト、ギドン・クレーメルはラトビア出身であるが、彼がバルト三国の若手弦楽器奏者を集めて結成した「クレメラータ・バルティカ」が、1週間ほどかけてリーガの東方のリゾート地、スィグルダでJubilateという名のフェスティバルを開いており、土曜日の演奏会に行ってきた。スィグルダは6月21日、夏至祭を見に行ってきたばかりである(過去のブログ参照)。
 クレーメル自身は世界を飛び回っているため、彼は不在で若手団員だけで公演することも多いようだが、今回はクレーメルも出演していた。会場はスィグルダの駅やバスターミナルから近い「白いグランドピアノ」という名の音楽施設で、変わった形の建物はグランドピアノをイメージしたのだろうか。私は初めて来たが、音楽学校なども併設されていてとても綺麗で、ホールは小ぢんまりとしている。私は1週間以上前に切符を予約したが、すでにほぼ満席で、当日は補助椅子をたくさん出していた。遠くからやってきて、満席ですと追い返すわけにも行かないし、リゾート地だからふらりとやってくる人もいて、みんな入れてしまったのだろう。日本では消防法などがうるさいのだろうが、こちらではおおらかである。私は右手後方の出入り口付近の席で、人の出入りが多くてどうにも落ち着かない場所だったが、何故か作曲家のマスカツ、プラキディス、「クレメラータ・バルティカ」団長なども周囲に陣取っていた。マスカツ氏などは最初折りたたみのパイプ椅子に座っていて、あとでちゃんとした木の椅子に変えてもらっていた。プラキディス氏は私の隣の隣に座っていた。
 フェスティバルの一連のプログラムは「BBB」と総称し(これは通常の「バッハ、ベートーベン、ブラームス」ではなく、「ベートーベン、バルトーク、バルト三国」である!)演奏会ごとに替わるが、私が聴いた演奏会のプログラムは次の通りであった。ベートーベン「弦楽四重奏曲12番」より第2楽章(編曲:ビクトル・キシン、世界初演)、ペレーツィス「或る伝記の一節」(世界初演)、休憩ののちプラキディス「バイオリンと弦楽のためのJubilate」(世界初演)、アルボ・ペルト(エストニア)「パッサカリア」、そしてグスタフ・マーラー「交響曲第10番」よりアダージョ、であった。以前書いたが、プラキディスとペレーツィスは今年還暦を迎える。会場に聴きに来ていた今年50歳のマスカツの作品は、今回は演奏されなかった。
 ベートーベンの後期弦楽四重奏曲の編曲は、クレーメルも座り、コンサート・マスターをつとめた。何と贅沢な、と思ったが、バイオリン・ソロがところどころうまい具合に入っており、クレーメルが弾くことを前提に編曲されたものだろう。私は、ベートーベンの弦楽四重奏曲、特に後期のそれは、クラシック音楽の最高傑作の一つだと思っているが、実際、指揮者でさえこれらに思い入れのある人は多く、フルトベングラーは全曲暗譜していたというし、バーンスタインは第14番を弦楽合奏のために自ら編曲していた。これは自ら指揮したかったからで、昔日本で衛星放送で聴いた(見た)ことがあるが、非常に違和感を感じたのに対し、このキシンという人が編曲した12番は、なかなか良い編曲であった。第一バイオリンだけでなく、各パートにソロのフレーズが割り当てられていたのが良かったのだと思う。
 続くペレーツィスの、これまた謎めいた題名の作品については、半年ほど前、北條さんのCD制作のため、ペレーツィス氏が教鞭をとる音楽アカデミーに写真を撮りに行ったとき、ご本人からスケッチを見せてもらい(私はスコア・リーディングができないので、見ただけである)、話を聞いていたのでとても楽しみであった。全体としては現代の不安もところどころ醸し出している作風で、ちょっとこれは今までのペレーツィスらしくない。新境地開拓か?と思わせた。本人から話に聞いていたのは、何も知らないで聴いたらびっくりするだろうが、突然、ブラームスのバイオリン協奏曲の、ちょうどソロが始まるところの一節が、奏でられたことである。私は事前に知っていたのにもかかわらず、びっくりした。これは不思議な感覚で、現代音楽なら何の脈絡もなく突然、ということもあるだろうが、ペレーツィスの場合はそれが何らかの必然と連関をもって挿入されたと思えるのである。音楽理論の知識のない私には残念ながら、ペレーツィスがどのようなテクニックを駆使しているのか、分析できないが、謎は謎のまま取っておくのも一興、だろうか。
 しかし、ペレーツィスのマジックはこれでは終わらない。やはり本当は唐突ではないのだろうが、あたかも唐突といった感じで、シベリウスのバイオリン協奏曲が始まったのである。これまた頭をガツーンとやられたような気がした。そしてその後、エルガーの協奏曲の一節もでてきたはずだ。さらに、一番唐突だったのが、ベートーベンのバイオリン協奏曲の3楽章であった。これは正直なところ、あっけにとられた。それだけではない。合奏が止み、再びソロがシベリウスを奏で始めると、団員の一人が舞台の後方へ移動し、シロフォンで後を追いかけるのである。そりゃあないよペレーツィス先生、という感じである(笑)。だんだん頭が混乱してきた。最後どのように締めくくったか、よく覚えていない。しかもとても長かった。時計は見ていないが、40分ぐらいあったかもしれない。楽章の切れ目はない。私は演奏会で寝るのが好きで、この曲も眠れる曲想なのだが、謎解きに煩悶し一睡もできなかった。拍手する聴衆も皆、狐につままれたような感じであった。
 とはいえリゾート地での演奏会、休憩時間は会場が手狭ということもあり、みんな前庭に出て歓談した。私はマスカツ氏と、クレメラータのバイオリニストの中でも指折りの実力派(だと私が思っている)、サンディス・シュテインベルクスとおしゃべりをした。彼の名は覚えておいて損はない。彼はまだ25歳くらいだと思うが、ペレーツィスの協奏曲「それにもかかわらず」をラトビア国内初演するなど活躍している。何度も来日していて、今年も6月半ばに「クレメラータ」の一員として東京・名古屋等で公演したばかりであった。二人もやはりペレーツィスの作品について議論していた。「他に誰のバイオリン協奏曲があったっけ?」「エルガーですよ」「どの辺?」実は、私は事前に全て知っていたのに、一睡もしなかったのに、エルガーがどこに入っていたか、気がつかなかった!
 ともかく気を取り直し(?)後半である。プラキディスの新作初演は、手堅くまとめられており、私は彼の作品のよき理解者では必ずしもなかったが、還暦ということで本人が吹っ切れたのかは分からないが、彼の代表作にあげてよいと思われる。聴衆の反応もよかった。終了後プラキディスが舞台に上がり、演奏者と握手をし、席に戻ったところ「あれ、短か過ぎますよ」と言われていた。
 ペルトの「パッサカリア」はクレーメルの誕生日を記念して作曲されたもので、やはり世界初演。編成はバイオリン2本、ビブラフォンと弦楽である。ソロはクレーメルと、イブラギモワという女性が担当した。マーラー交響曲10番は、日本でもよく知られているので、特に解説の必要はないだろう。私はマーラーはどうも苦手なのだが、非常に練り上げられた演奏に感服した。この曲だけ何故か、バイオリンとビオラは椅子を片付けてしまい、立って演奏していた(そういえば、バシュメット率いるモスクワ・ソロイスツもそうだっけ)。終演時、聴衆が全員起立したが、何故かよくわからない。アンコールは知らない曲で、演奏者も何も言わなかったのでわからない。そのうち確認できればと思う。 アンコールの後にもみんな起立したが。これも何故だったのだろう。