ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2008年4月30日

詩人スクイェニエクスの新刊書プレゼンテーション

 このブログでの投稿の配列は、公開した順でなく、書き始めた順になるので、私のように何本か並行して作成する癖があると、だいぶ前に書きかけで(つまり公開せず)放置しておいたものが、投稿したら古い方(下の方)にいってしまうことになる。しかも、2月から3月にかけてはゆっくり文章を練る時間がなく、だいぶ書きかけの投稿がたまってしまっている。全く言い訳のしようがないが、1~2ヶ月前の投稿もさかのぼってご覧いただければ幸いである。以前にも書いたが、ずっと古い投稿も、時々加筆・修正をしている。
 さて、本格的な春となり、観光シーズンも始まった。とはいえ、朝晩はまだジャンパーが必要なくらい冷え込んでいる。1週間ほど前から、オープンカフェの営業が始まり、中心部の運河に遊覧船が走り始めた。もっとも、肌寒い中早々とオープンカフェを楽しんでいるのは、北欧からの観光客であるが。
 そして、1年前にも書いたが、5月は1日と4日が祝日で、実質的に連休となる。日本の黄金週間と似ている。今年は4日が日曜日だから、5日が振替休日となり、多くの職場は2日も休みにしてしまうから、5連休である。しかも4月30日は昔の日本でいう半ドンとなる。他の時期でも、連休があるとその前の平日は半ドンにしてしまうところが何とも優雅で、羨ましい限りである。
 今回は文学の話題である。詩人スクイェニエクスの著作集が、第8巻をもって完結することになり、その記念プレゼンテーションが30日、ラトビア協会で開かれた。午後5時からとなったのは、半ドンだからであろう。私はあろうことか、風邪をひいてしまい、午後まで寝ていたが、本人から招待状が送られてきた手前、行かねばならぬと起きだして近所で花を買い、会場に向かった。会場の「リーゴ・ホール」ではスクイェニエクス本人はもちろん、同協会の会長、出版社社長が前に置かれた小さな机の周りに座り、主任編集者が客席の最前列に座っていた。ラトビア協会の会長も作家で、20世紀前半を代表する詩人チャクスの著作集を編集しており(昨年11月の投稿参照)、司会進行を務めた。
 薄い詩集ではなく、全作品の収録を目指した著作集であるから、1冊の厚さがかなりあり、8巻で計6千ページを超えるその編集作業は、並の困難さではなかったことをうかがわせる。もちろんチャクスとは違い、作者が存命中であるからいささか楽かもしれないが、それでも作品が散逸していることもあるだろう(話が飛ぶが、一昨年9月、北條さんのピアノリサイタルに、若手詩人G.M.君が友人数名と来てくれ、後日「あのコンサート中に、1編の詩が思い浮かんだんで、書いたんだよ」というので、ぜひ見せてほしいと私が頼んだら、一緒にいたE嬢にあげてしまった由、そのE嬢に訊いたら、その後引っ越したのでどこかへ行ってしまったのだという。詩の場合特に、こういうことはしばしばある)。
 つい最近にも、スクイェニエクス氏のイベントが開催されたことがある。以前書いた、書籍見本市の会場でだ。最終日だった3月2日、スクイェニエクス氏や出版社の人々などが集まっていたが、その時は、第8巻がまだ刷り上っていなかったので、「これから出る予定の」第8巻についての話をしていた。
 今回晴れて、その第8巻の現物を前にしてのプレゼンテーションとなったのだが、その中に収められている作品をひたすら朗読する、というのではなく、詩人本人による昔の作品や、活字にならなかったユーモラスな詩の朗読、また女優による詩と手紙の朗読、さらに日本で言うならフォーク歌手による歌、他の詩人や編集にかかわった人々のエピソードなどが交替であり、飽きさせず、それだけでも楽しめるイベントになっていた。こういうプレゼンは大体そんな感じだが、スクイェニエクスの場合は特にそうで、彼本人とそれを支える人たちのおかげでいつも楽しませてもらっている。もちろん出版社としてはこの機会に本も売らなければならないから、入口付近にテーブルが置かれ、第8巻をはじめ彼の詩集が市価より安く販売されていた。
 さて、このスクイェニエクス氏は、1960年代に強制収容所で流刑生活を送るという、波乱の人生を送ってきた人である。彼の流刑地はシベリアではなく、ヨーロッパ・ロシアであるが、20代から30代にかけての脂の乗った時期、それも新婚間もない時期に、すべてを奪われたのである。見本市の時にも、今回のプレゼンでも、当時書かれた詩や、奥様にあてた手紙が女優によって朗読され、我々聴衆の涙を誘った。しかし、スクイェニエクスは絶望のどん底には陥らず、常にどこかに希望を見出し、決して幻想を抱くことはないが楽観主義を貫いてきた人だと思う。というか、別の詩人がスクイェニエクスを評してそう言っていたのを敷衍しただけなのであるが、彼の人と詩を語るときにこの収容所体験は外せないのではあるけれど、本人は雑談ではそういう話題ではなく、たとえば旧ソ連時代の反体制作家、パステルナークとの交友について語ることを好む人なのだ。我々は彼の詩作品だけでなく、その飾らない人柄にも惚れこんでいるわけだ。
 プレゼンが終わると別室で乾杯、となる。出版社の人たちが白樺ジュースを持ってきていて、試しにこれでワインを割ってみた。微妙な味である。スクイェニエクス氏やその親しい人々とともに楽しく語り合った。スクイェニエクス氏は、著作集第1巻に載っている、収容所時代の本人の写真について、「あれは編集者が、KGBのアーカイブで見つけたんだよ。僕も知らなかったんだ」この写真は非常に印象的である。また、共通の知人であるウクライナの詩人のことなどが話題になった。スクイェニエクスと親しいゴディンシュ兄弟(一人は詩人でエストニア語からの翻訳も手がける、もう一人はミュージシャン)とは久しぶりに会った。私は随分前に彼らとスクイェニエクス邸にお呼ばれするという光栄に預かり、離れのピルツ(サウナに似ているが、少し違う)で語り明かしたことを懐かしく語り合った。
 スクイェニエクスの活動でユニークなのは、自ら詩を書くだけでなく、訳詩であり、著作集でもかなりの部分を占めている。こういう詩人は何人かいて、たとえば今回来ていたU.ベールズィンシュ氏は、ラトビア随一のポリグロットと言われていて、いったいいくつの言語ができるのか、誰も知らない。訳詩はアラビア語やトルコ語などが中心、コーランもラトビア語に訳している。スクイェニエクスはヨーロッパの少数言語を中心に、やはり数多くの言語をものにし、民謡から現代詩まで様々なものを訳している。また逆に、スクイェニエクスの詩を外国語に訳すことも行われており、私も以前リトワニア語訳の詩集を手に入れたことがある。
 そこで、である。この打ち上げの時、スクイェニエクス氏本人からまず、「君はあとどのくらいリーガにいるのかね(ラトビアでなくリーガと言ったのがちょっと面白いと思った)」ときかれ、「ええまあ、もうしばらくはいようと思ってます」と答えたら、「そうか、それなら、僕の詩を日本語に訳してみないかね」との提案を受けてしまった。もちろん、ただ趣味で訳すだけなら勝手にやればいいのであるが、これはもちろん、活字になるぞという話である。光栄なことだが、文学的感性などまるでない私に、まともな訳詩など出来るのだろうか。悩んでいるところである。

2008年4月19日

FM軽井沢でペレーツィス作品を放送?

 さる筋から入手した情報によると、FM軽井沢というコミュニティFMラジオで、女優の島田陽子氏が隔週土曜日の22時~23時にDJを務める番組があるそうなのだが、そこで北條陽子さんのCDが取り上げられ、ペレーツィスの『第4組曲』がかかるかもしれないとのことである。放送日など、これ以上詳しいことはわからないので恐縮だが、私は番組を聴くこともできないので、読者に軽井沢かその周辺にお住まい、またご滞在中の方がおられたら、コメントをいただければ幸いである。

2008年4月3日

北條さんのCD国外通販情報

 北條陽子さんのCDの通販だが、当ブログにコメントをくださっているamtaro23さんがアマゾンで購入された後、私の方で見てみたら、品切れにはなっておらず、取り寄せになるということだった。入荷するのに数週間かかるようだが、少し辛抱すれば入手可能である。割引になっているうえ、日本国内は送料無料なので、興味のある方は是非どうぞ(なお、私はアマゾンの宣伝要員ではありません)。
 日本国外在住の方にも朗報がある。「クラブジャパン」という、日本のさまざまな商品を海外に発送してくれるサイトがある。アドレスはこちら。
http://www.clubjapan.jp/exec/top/index.php
 ここではなんと、CDの送料無料キャンペーンをやっており、北條さんのCDもその対象になっている。手数料として約100円取られるようだが、かなりお得である。海外の方はこちらからどうぞ。

2008年4月2日

友、遠方より来るあり

 一昨年から旧ソ連の某国で仕事をしている旧友のF氏が、3月下旬に休暇を取ってラトビアとリトワニアにやってきたので、リーガを案内した。こんな所へ(失礼)やってくる知人は少ないので、とてもうれしいことである。
 今年は3月20日が春分日で、この日をもって春の始まりとしている。ラトビアでは今年は3月21日と24日がイースターの公休日で、例年金曜と月曜に設定され、4連休が取れるようになっている。ちなみに、ラトビアでは、最近になってようやく振替休日が設定されるようになった他、祝日が火曜日や木曜日にあたる場合、月曜日や金曜日を休日と定める代わりに、土曜日を「代平日」にするということも行なわれている。話がそれたが、その後F氏は一人でリトワニアへ行き、任地へ戻る日の夕方にリーガに戻ってきたので、再び落ち合って空港まで同行した。リトワニアまで同行できれば良かったが、私の方がいろいろ用事が入っており、それはかなわなかった。
 それにしてもここ最近の気候の変動は、面白いと言ったら変かもしれないが、とにかく面白かった。まず、この冬は80数年来の暖冬で、毎冬数日はある零下20度以下の寒い日が、ついになかった。この点では地球環境が心配である。雪は降ってもすぐ融けてしまっていた。それが、イースターの少し前から、何度もまとまった雪が降り、かなり積もった。しかしイースターが明けるとまた暖かくなり、すぐに雪が融けてしまい、すっかり春の陽気である。
 私のリーガ案内は、これといって特徴はなく、ガイドブックに載っているような旧市街、アールヌーボー、野外民俗博物館といったところで、今回もそうであった。F氏にはあまりなじみのない地域ということで、かなり新鮮だったようである。野外民俗博物館は、ちょうどまとまった雪が降り、川崎にある日本民家園を彷彿とさせる家並とよく合っていた。ちなみに、ここで発行されている紙幣にも、伝統的な農家を描いたものがあり、日本人の多くが「日本の昔の茅葺き農家みたいですねえ」という。
 リーガ旧市街では、F氏が重大な使命を果たすため、真剣な顔をしていた。妻子へのお土産である。一人で来てしまったので、これは欠かせない。すると琥珀の店があった。私はどうも、琥珀なんていい土産になるものかな、と思っていたが、旧市街で数件回った店ではかなり加工技術の高い製品(値段もそれなりに高い)が並んでいて、なかなか進歩しているようだ。住んでいるのにこういうことに気付かないとは、恥ずかしい。またある店では、アルバイトの若い女性が日本語を話すので、一同びっくりした。
 F氏は一人で行動中、書店を回って本をたくさん買ったようである。なんといっても、こうして外国にいる者同士が(もちろん日本からでも歓迎だが)行き来して、情報交換ができれば、これほど面白いことはない、と改めて思ったのであった。