詩人スクイェニエクスの新刊書プレゼンテーション
このブログでの投稿の配列は、公開した順でなく、書き始めた順になるので、私のように何本か並行して作成する癖があると、だいぶ前に書きかけで(つまり公開せず)放置しておいたものが、投稿したら古い方(下の方)にいってしまうことになる。しかも、2月から3月にかけてはゆっくり文章を練る時間がなく、だいぶ書きかけの投稿がたまってしまっている。全く言い訳のしようがないが、1~2ヶ月前の投稿もさかのぼってご覧いただければ幸いである。以前にも書いたが、ずっと古い投稿も、時々加筆・修正をしている。
さて、本格的な春となり、観光シーズンも始まった。とはいえ、朝晩はまだジャンパーが必要なくらい冷え込んでいる。1週間ほど前から、オープンカフェの営業が始まり、中心部の運河に遊覧船が走り始めた。もっとも、肌寒い中早々とオープンカフェを楽しんでいるのは、北欧からの観光客であるが。
そして、1年前にも書いたが、5月は1日と4日が祝日で、実質的に連休となる。日本の黄金週間と似ている。今年は4日が日曜日だから、5日が振替休日となり、多くの職場は2日も休みにしてしまうから、5連休である。しかも4月30日は昔の日本でいう半ドンとなる。他の時期でも、連休があるとその前の平日は半ドンにしてしまうところが何とも優雅で、羨ましい限りである。
今回は文学の話題である。詩人スクイェニエクスの著作集が、第8巻をもって完結することになり、その記念プレゼンテーションが30日、ラトビア協会で開かれた。午後5時からとなったのは、半ドンだからであろう。私はあろうことか、風邪をひいてしまい、午後まで寝ていたが、本人から招待状が送られてきた手前、行かねばならぬと起きだして近所で花を買い、会場に向かった。会場の「リーゴ・ホール」ではスクイェニエクス本人はもちろん、同協会の会長、出版社社長が前に置かれた小さな机の周りに座り、主任編集者が客席の最前列に座っていた。ラトビア協会の会長も作家で、20世紀前半を代表する詩人チャクスの著作集を編集しており(昨年11月の投稿参照)、司会進行を務めた。
薄い詩集ではなく、全作品の収録を目指した著作集であるから、1冊の厚さがかなりあり、8巻で計6千ページを超えるその編集作業は、並の困難さではなかったことをうかがわせる。もちろんチャクスとは違い、作者が存命中であるからいささか楽かもしれないが、それでも作品が散逸していることもあるだろう(話が飛ぶが、一昨年9月、北條さんのピアノリサイタルに、若手詩人G.M.君が友人数名と来てくれ、後日「あのコンサート中に、1編の詩が思い浮かんだんで、書いたんだよ」というので、ぜひ見せてほしいと私が頼んだら、一緒にいたE嬢にあげてしまった由、そのE嬢に訊いたら、その後引っ越したのでどこかへ行ってしまったのだという。詩の場合特に、こういうことはしばしばある)。
つい最近にも、スクイェニエクス氏のイベントが開催されたことがある。以前書いた、書籍見本市の会場でだ。最終日だった3月2日、スクイェニエクス氏や出版社の人々などが集まっていたが、その時は、第8巻がまだ刷り上っていなかったので、「これから出る予定の」第8巻についての話をしていた。
今回晴れて、その第8巻の現物を前にしてのプレゼンテーションとなったのだが、その中に収められている作品をひたすら朗読する、というのではなく、詩人本人による昔の作品や、活字にならなかったユーモラスな詩の朗読、また女優による詩と手紙の朗読、さらに日本で言うならフォーク歌手による歌、他の詩人や編集にかかわった人々のエピソードなどが交替であり、飽きさせず、それだけでも楽しめるイベントになっていた。こういうプレゼンは大体そんな感じだが、スクイェニエクスの場合は特にそうで、彼本人とそれを支える人たちのおかげでいつも楽しませてもらっている。もちろん出版社としてはこの機会に本も売らなければならないから、入口付近にテーブルが置かれ、第8巻をはじめ彼の詩集が市価より安く販売されていた。
さて、このスクイェニエクス氏は、1960年代に強制収容所で流刑生活を送るという、波乱の人生を送ってきた人である。彼の流刑地はシベリアではなく、ヨーロッパ・ロシアであるが、20代から30代にかけての脂の乗った時期、それも新婚間もない時期に、すべてを奪われたのである。見本市の時にも、今回のプレゼンでも、当時書かれた詩や、奥様にあてた手紙が女優によって朗読され、我々聴衆の涙を誘った。しかし、スクイェニエクスは絶望のどん底には陥らず、常にどこかに希望を見出し、決して幻想を抱くことはないが楽観主義を貫いてきた人だと思う。というか、別の詩人がスクイェニエクスを評してそう言っていたのを敷衍しただけなのであるが、彼の人と詩を語るときにこの収容所体験は外せないのではあるけれど、本人は雑談ではそういう話題ではなく、たとえば旧ソ連時代の反体制作家、パステルナークとの交友について語ることを好む人なのだ。我々は彼の詩作品だけでなく、その飾らない人柄にも惚れこんでいるわけだ。
プレゼンが終わると別室で乾杯、となる。出版社の人たちが白樺ジュースを持ってきていて、試しにこれでワインを割ってみた。微妙な味である。スクイェニエクス氏やその親しい人々とともに楽しく語り合った。スクイェニエクス氏は、著作集第1巻に載っている、収容所時代の本人の写真について、「あれは編集者が、KGBのアーカイブで見つけたんだよ。僕も知らなかったんだ」この写真は非常に印象的である。また、共通の知人であるウクライナの詩人のことなどが話題になった。スクイェニエクスと親しいゴディンシュ兄弟(一人は詩人でエストニア語からの翻訳も手がける、もう一人はミュージシャン)とは久しぶりに会った。私は随分前に彼らとスクイェニエクス邸にお呼ばれするという光栄に預かり、離れのピルツ(サウナに似ているが、少し違う)で語り明かしたことを懐かしく語り合った。
スクイェニエクスの活動でユニークなのは、自ら詩を書くだけでなく、訳詩であり、著作集でもかなりの部分を占めている。こういう詩人は何人かいて、たとえば今回来ていたU.ベールズィンシュ氏は、ラトビア随一のポリグロットと言われていて、いったいいくつの言語ができるのか、誰も知らない。訳詩はアラビア語やトルコ語などが中心、コーランもラトビア語に訳している。スクイェニエクスはヨーロッパの少数言語を中心に、やはり数多くの言語をものにし、民謡から現代詩まで様々なものを訳している。また逆に、スクイェニエクスの詩を外国語に訳すことも行われており、私も以前リトワニア語訳の詩集を手に入れたことがある。
そこで、である。この打ち上げの時、スクイェニエクス氏本人からまず、「君はあとどのくらいリーガにいるのかね(ラトビアでなくリーガと言ったのがちょっと面白いと思った)」ときかれ、「ええまあ、もうしばらくはいようと思ってます」と答えたら、「そうか、それなら、僕の詩を日本語に訳してみないかね」との提案を受けてしまった。もちろん、ただ趣味で訳すだけなら勝手にやればいいのであるが、これはもちろん、活字になるぞという話である。光栄なことだが、文学的感性などまるでない私に、まともな訳詩など出来るのだろうか。悩んでいるところである。