ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2007年11月25日

歴史の講演会

 皆様、新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 気がつくと、前回の投稿から1ヶ月以上たってしまっていた。新規投稿を心待ちにしていらっしゃる方々(がいらっしゃるのかどうかわからないが)には大変申し訳なく思っている。このブログは下書きを保存してくことができ、そこを確認すると、11月末から書きかけで放りっぱなしのが何本かあったので、まずはそれらを仕上げようと思う。
 11月22日、ダウガウピルス大学の助教授を務める歴史学者、K.K.先生が、ラトビア協会で講演をするというので行ってみた。テーマは、ラトビア西部、クルゼメ(クルラント)地方の歴史に興味のある人なら知っている、俗に「クロニア人の王たち」(クロニア人とは、「クルゼメ」の語源となった、この地方に定住した、現在のラトビア人につながる一部族だが、その移動の歴史は複雑で、その居住地は必ずしもクルゼメ地方とは一致しない)と呼ばれた、ドイツ騎士団により封土を与えられた、農奴でもなく、自由農民でもない、特異な階層の人々について、のはずだったが、会場に行ってみると、中年のおじさんに話しかけられ、「今日の講演ですが、告知していたのと全く違うテーマになるんですけど、よろしいでしょうか」「ええ、かまいませんよ」この妙に紳士的なおじさん(後で、私と3歳しか離れていないと知って、びっくりした)が講演者だった。
 それで結局、講演の内容は何だったのか、というと、ラトビア人自身がラトビアのことを知らない、むしろ外国人が、ラトビアの文化に興味を持ち、よく研究している、ということを、たくさんの本や資料を持ってきて説明してくれたのであった。このブログで以前紹介した、ペーテリス・シュミッツのことも取り上げられた。そこで私も、全く忘れられてしまった、ソ連時代の日本語学者スパルウィンシュの話をしたら、先生をはじめだれも知らないということで、みな感心していた。私は客席で聴いていただけなのに、拍手を受けてしまった。春ごろ講演してくれませんかともお誘いを受けたが、これはどうなるか未定である。
 その他の講演の内容については、次から次へと固有名詞が出てきて、ちゃんとメモが取れなかったので、その時紹介された資料が手に入ったら、改めて報告できればと思っている。

室内楽コンサート

 11月24日、ラトビア協会で室内楽コンサートがあったので、行ってみた。出演は若手の女性ばかりで、フルートとピアノとバイオリン。前半がラトビアの作曲家の作品、後半は作曲家の名前から察するに、おそらくイギリスの現代作曲家の作品であったようだ。
 前半はバスクスの「フルート独奏のための鳥のいる風景」で始まった。バスクスの作風には、写実的な要素はないと思っていたが、この作品はなかなかどうして、文字通り鳥のいる風景そのものなのであった。高校時代、ある音楽理論の入門書を読んでいたとき、「木管楽器には、複数の音を同時に出す奏法があり、現代音楽で使われている」と書いてあるのに出くわして、本当だろうかと長年疑っていたのだが、この曲でそれが使われていて、なるほどと納得した。その後も、グリーヌプス(故人)の「フルートとピアノのためのノクチューン」、シュミードベルクスの「フルート、バイオリン、ピアノのための三重奏曲」という二人のラトビアのベテラン作曲家の作品が続いた。
 後半はリバーマン、グリフィン、クラークという、おそらくイギリス人と思われる若手作曲家3名の、それぞれ「フルートとピアノのためのソナタ」、「フルート独奏のための断片的ロンド」、フルートとピアノのための4つの商品が演奏された。クラークの4作品のうち、2曲目が大変印象的な旋律で、演奏者もそれをわかってか、アンコールでその曲をもう一度演奏した。
 こういう演奏会はたびたびあるが、若手演奏家の内輪の発表会のような感じかと思って来てみたら(お客は少なかったが)、ラトビア・ラジオの関係者が何人か来ていて、録音もされていて、それだけに演奏のレベルも高く、それなりのものであったのは、うれしい誤算であった。

北條陽子さん、ふたたびペレーツィスを演奏

 今回はラトビアからのお知らせではないが、ピアニストの北條陽子さんが東京でラトビアの作曲家、ゲオルクス・ペレーツィスの作品を演奏するので告知をしておきたい。
 9月29日から12月16日まで、明治大学リバティ・アカデミーの公開講座「ロシア・東欧音楽の真髄」というレクチャー・コンサートが開かれている。講師は白石隆生先生(ピアニスト・尚美学園大学大学院教授)、他である。
 最終日の12月16日(日)には、北條さんをはじめ多くの演奏家が出演するが、北條さんはペレーツィスの「第4組曲」より2楽章を演奏する。これは北條さんが、昨年9月のリーガ・リサイタルと、今年3月の東京リサイタルで、全曲演奏した作品である。
 この公開講座は、題目通りロシア・東欧の作曲家、グリンカ、チャイコフスキー、ショパンからショスタコービチに至る、超有名作曲家の中に、我らがペレーツィスも名を連ねているのである。その意味でも有意義な企画だと思う。
 詳細はこちら。https://academy.meiji.jp/shop/commodity_param/ctc/20/shc/0/cmc/07220020/backURL/+shop+main

2007年11月18日

イマンツ・カルニンシュ交響曲コンサート

 11月17日、独立記念日関連行事として、ラトビア協会大ホールで標記のコンサートが開かれた。カルニンシュという姓の作曲家は少なくとも3人、手元の資料ではさらにもう一人いるらしく、時代が様々であるとはいえ、名前をつけないと紛らわしいことこの上ない。
 イマンツ・カルニンシュは、ソ連末期以降政治活動に積極的な人で、国会議員もしているが、その傍らポピュラー・ソングはたくさん書いているので、クラシックに興味のないラトビア人にもよく知られているが、交響曲を書いていることは知らない人も多い。なにしろ、第5番から6番まで、20年以上のブランクがあったのである。6番は不評だったらしいが、それに対して新聞紙上でこの作品を擁護したのが、われらがペレーツィスであった。
 日本にいたころ、彼の交響曲第4番のCDを入手して、夢中になって聴いたことがある。CDは2種類出ており、ひとつはラトビア西部のリエパーヤ交響楽団、もうひとつはなんと上海交響楽団である。今や世界のイマンツ・カルニンシュだ。この日のコンサートはリエパーヤ交響楽団がリーガに来て演奏した。リエパーヤという都市は、人口10万人に満たない小さな町なのに、ラトビアで最も古いプロ・オーケストラがあるのだから、すばらしい。
 最初に科学アカデミー総裁と、ラトビア協会会長(木曜に会ったばかりだ)のあいさつ、それから全員起立して国歌斉唱があった。
 リエパーヤ交響楽団の首席指揮者、レスニス氏が最初にこう告げた。「プログラムの変更があります。交響曲第4番は第1楽章だけでなく、第2楽章も演奏します。それから、プログラムには第5番4楽章、第6番3楽章となっていますが、この2曲の順序を入れ替えます。そして、最後はプログラム通り、交響組曲『風よ、そよげ』よりフィナーレ、となります。」
 交響曲1~3番については全く資料がないし、聴く機会もない。習作なのかもしれない。4~6番はCDが出ており、愛聴していた。この日は全楽章演奏したわけではないが、生で聴く貴重な機会である。
 第4番は、「ロック・シンフォニー」と名付けられており、ドラムなどが活躍する。第1楽章は同じテーマが繰り返し出てくるのだが、変幻自在で飽きさせない。第2楽章はシロフォンの囁くような旋律で始まり、メロディー・メーカーであるイマンツ・カルニンシュの面目躍如といったところ。
 つづく第6番の第3楽章は、軽快ながら高貴さと優雅さを兼ね備えた旋律で始まり、その後次々と繰り出される印象的な旋律が聴衆をひきつけてやまない。後半に出てくるフレーズはただもうカッコいいとしか言いようがないのだが、その中に少しだけ、沖縄音楽風の旋律が登場する(ような気がする)。そのせいか、めっきり寒くなったこの11月の北国で、熱帯地方の陽光を感じたのは、まあ私一人の錯覚だろうが、ともかくそういう印象を受けた。この日のプログラムで最も良い作品だと思ったし、演奏もメリハリがきいていて、よかった。なお、他の楽章には合唱があり、インドの詩人タゴールの詩が使われている。この曲が初演時不評だった理由については、批評を読んでいないので知らないが、1時間を超える大作で、全体の構成にまとまりがないと思われたからかもしれない。この3楽章を聴いた後外に出たら、菜の花畑で口笛を吹いて小躍りしたくなる。これだけでなく、イマンツ・カルニンシュの作品は、どれも基本的に人生賛歌といってよかろう。
 コンサートをしめくくったのは、有名な民謡「風よ、そよげ」と同名の映画のための音楽である。組曲の最初から最後までこの民謡の旋律が出てくるが、フィナーレではなんとエレキギターがこれを奏でる。ただ、演奏が今一つであった。
 全体として、何人かの管楽器奏者に少々技術的なミスが見られたものの、レスニス氏の的確な棒さばきの下、雄渾でダイナミックな演奏をきかせてくれた。他の聴衆も満足していたようで、拍手が鳴りやまなかったが、残念ながらアンコールはなかった。独立記念行事なので仕方ないだろう。
 その後階下のロビーで、歴史学専攻の友人とその彼女と会い、カフェで長時間、日本とラトビアの歴史や文化について語り合った。なかなか有意義な土曜日であった。
 イマンツ・カルニンシュという作曲家も、日本に紹介される機会があっていい。

2007年11月16日

詩人チャクス

 15日の昼間、不愉快なことがあったので、晩に何か楽しい行事はないかと思っていたら、20世紀の前半に活躍した詩人アレクサンドルス・チャクスの著作集第6巻のプレゼンがあるということで、チャクスの住んでいたアパートを利用した小さな博物館に行ってみた。
 本が出版されるときに、プレゼンテーションを行なうというのは、日本ではあまりない(私が知らないだけかな?)が、こちらではよくある。今回、チャクス著作集はこの第6巻をもって完結するということと、書店には既に出回っていて、値段を見たらかなり高かったので、プレゼンなら安く買えるだろうと踏んだのである。市価より4割ほど安かったので購入した。それまでの巻と比べべらぼうに厚く、1千ページを超えてしまったのは、未刊行の散文、音楽や演劇の評論などをどんどん入れてしまったからだろうか。これは最終巻なので「その他」である。チャクスの詩などの主要作品はその前の巻を見ないといけない。
 その前に用事があって遅れてしまったので、最初に何があったのかはわからない(訊きそびれた)が、編集責任者のR氏(小説家、ラトビア協会会長)が編集のエピソードなどを語り、その後研究者や編集者、出版関係者のコメントなどがあった。来ていたのは20名程度であったが、会場が狭いので立ち見が出た。
 プレゼンが終わるとコーヒーやワインなどを片手に談笑、となるわけだが(それが目的だったりするが)、私がもともと面識のあるのはR氏と、ラトビア協会に勤めるJ.J.氏だけであったが、いつしかみんな親しくなった。R氏は、「今の時期はイベントが目白押しで、連日いろんなところに顔を出さなくちゃいけないから、大変なんだよ」と言いつつ、チャクス著作集の完成という事業をなしとけたことを、心から喜んでいる風であった。
 この日、R氏が会長を務めるラトビア協会で、首相や大統領も出席したイベントがあったのに、そちらには副会長を差し向けて、会長さんは本のプレゼンに来てしまった。本のほうは編集責任者だから、優先順位が高いというわけで、なんとも合理的な考え方である。それでもラトビア協会でのイベントがどうなったか気になったらしく、R氏はなんと、首相に電話していた。「ラトビアは小さな国ですから、みんな自分の政府を持っているんですよ」とJ.J.氏が面白そうに言った。電話が済むと、みんながR氏に「そういえば、文化大臣にならないか、って話、あったんでしょ?」ときくと、「うんまあ、あったけどね」小国ではこういう会話は結構身近に聞くことがある。
 チャクスがソ連時代もラトビアにとどまっていたということで、話題は自然と当時の文学の話になった。「ロシアにはサムイズダート(ロシア語で「地下出版」、そのままロシア語で言っていた)があったけど、ラトビアにはなかったんですよ。なぜかというと、我々だけが「行間」を読み取ることのできる表現というのがあって、それらは検閲を通ってしまうんですよ。公に出版されたそういう作品を読んで、我々は行間を読んでなるほど、と感じることができる。我々のそういう感性は北欧に似ていて、ロシア人にはわからない。イプセン(ノルウェーの劇作家)の作品を例えばモスクワの劇場で上演しても、受けない。彼らには理解できないんですね」
 これにはずいぶん考えさせられた。思っていた通り、厳しい検閲はあったのだが、当局から見れば「問題」のありそうな作品が、そうして検閲をすり抜けてしまうなんて、本当にあったのだろうか?サムイズダートを出す必要もなかったほど、そうしてすり抜けた作品がどんどん活字になっていた、とすれば、あの時代の文化状況について、もう一度考え直せばなるまい。そして、世界文学を生みだしたロシアの人々にも理解できなかったということは、ソビエト化、ロシア化が急速に進んだといわれる当時のラトビア(の人々)は、一方でそうした感性を失うことなく、ソ連支配の半世紀を生き抜いた、ということなのか。私にとって、これは大きな課題である。
 こんな話をしつつ、打ち上げは大いに盛り上がり、気がつくと11時を回っていた。

ラーチプレースィスの日

 11月11日は、1919年のこの日、ラトビア軍がリーガを解放した記念日である。「ラーチプレースィス」とは、ラトビアの民衆の間に語り継がれた伝説の英雄で、クマ退治で名を馳せたため「クマを引き裂く者」(直訳)という意味があり、伝説をもとにした同名の長編詩が19世紀末に発表された。さて、ラトビア独立に貢献した、勇敢な兵士たちを称えてこういう名がついたのだが、ラーチプレースィスに直接関連のある日ではない(実在の人物ではないから当然だが)。ラトビア人でも何の日か知らない人が多いと、新聞で読んだことがある。ラトビアのような国でも、歴史は風化するのだ。国民の祝日ではないが、戦争で犠牲になった兵士たちを弔う行事が多く催される。特に、大統領官邸のある、リーガ城のダウガワ河岸に面した城壁には、ろうそくをたむける人々が多く集まる。
 なお、その1週間後の11月18日は独立記念日で、こちらは国民の祝日だが、これは前年の1918年、独立宣言が出された日である。つまり独立宣言が出た後も、内戦が続いており、翌1919年にようやく首都リーガが解放され、1920年に内戦が完全終結したのである。余談だがこれまでラトビアには振替休日を定める法律がなく、祝日が日曜でも次の月曜は平日だったが、今回の独立記念日は日曜で、初めて翌日が振替休日となる。日付としてはラーチプレースィスの日と1週間違いなので、この期間は中心部の一部の区画にずっと国旗が掲げられたままになっており、愛国心を鼓舞する期間と位置づけられている。
 リーガ市が主催する行事予定表を見ていたら、コンサートが2つあり、両方行ってみることにした。
 18時から聖ヨハネ教会で、バルト三国の作曲家による宗教音楽演奏会。演奏は、混声合唱団「アベ・ソル」。1970年代から何度も来日している団体である。当時はイマンツ・コカルス氏が指揮者で、現在はその子息のウルディス・コカルス氏が振っている。ラトビアの指揮者は世襲制、というわけではないが、こういうことは時々ある。 この日の演奏会は、彼が音楽監督で、指揮はリトワニアの人であった。
 はじめにラトビアの作曲家、プラキディス、ケニンシュ、アーベレ、イマンツ・カルニンシュの作品。その後詩の朗読が入り、世界的に有名なアルボ・ペルト(エストニア)の「マグニフィカト」、若手のホープ、ウルマス・シサスク(エストニア)の「アベ・マリア」と続いた。また詩の朗読があり、リトワニアの作曲家の作品に入るが、私にとって印象深かったのは、1972年生まれという若手G.スビライティスの作品であった。ペレーツィスのような、極めて保守的でありながら現代の光を放つ作風。気になる存在だ。そしてまた詩の朗読が入り、同じリトワニアのアウグスティナスという人の作品が演奏されたが、あまり印象に残らなかった。ともかく、非常に重厚なプログラムである。終了後、客席で聴いていたこの合唱団の先代指揮者イマンツ・コカルス氏に会った。とても気さくなおじいさんで、街で偶然会っても楽しくおしゃべりするのだが、ラトビア人にとってはものすごく偉い、人間国宝のような方である。「きょうはとても重いプログラムでしたな。演奏者にとってはこれは大変ですよ、とても」と感慨深げに話していた。
 ヨハネ教会から外に出ると、友人たちに出くわした。その一人、若手詩人のマーリス・G君は、しこたま酔っていた。私より若いのにぼうぼうにヒゲを生やし、瘋癲行者のようないでたちである。40代後半にしか見えない。酒癖が悪いので嫌な予感がしたが、道行く人々に向かって、なぜか英語で「フリーダム!」とさけんでいた。「はぁ」などと相手が言うと「何がはぁ、だ!はぁ、じゃねえだろ」と怒り出す。悪いのはお前だよ。
 とはいえ、リーガ解放記念日である。このマーリス・G君は、1991年1月、ラトビア独立を阻止しようとするソ連の特殊部隊が突入した時、大聖堂広場に人々が集まりバリケードを築いて防戦した、いわゆるバリケード事件に参加したことを誇りにしているのだ。しかし酒癖が悪いので、散歩している人々に向かってバリケード事件のことを語りかけている、つもりなのだろうが、からんでいようにしか見えない。

 細い道を通り、ダウガワ河に面したリーガ城の城壁へ向かう途中、映像関係の仕事をしている友人と、その彼女に出会った。既に大勢の人々がろうそくを持って集まっていた。それで最初に会ったマーリス・G君らとははぐれてしまい、8時を回っていたので英国国教会に向かうことにした。といってもすぐ近くである。ここでは8時半から、ラトビア民族音楽コンサートが予定されている。

 演奏者は、民族音楽学者として有名なV.ムクトゥパーベルス氏と、奥さん(リトワニア人の歌手でフォークロア研究者)、娘さんと仲間たちである。詩人のP.ブルーベリス氏が朗読することになっていたが、病気のためなしになった。とても残念である。コンサートは予定通り行われた。

 民族音楽というのは、一人でさまざまな楽器をかけもち、歌も歌う。このコンサートはムクトゥパーベルス氏が編曲した作品がいくつか入っており、伴奏に教会のオルガンやチェロが入ったのもあって、なかなか面白い。ムクトゥパーベルス氏が奥さんと二人で重唱した曲は、聴いている不思議な声が混じっており、ホーミー(モンゴル系民族の間で歌い継がれている、肋骨を共鳴させ倍音を響かせる特殊な歌唱法)だと気づいた。ラトビア人は、このような歌唱法は知らなかったはずである。こういうものを取り入れてしまうなんて、なかなかのアイディアである。ちなみにラトビアには、ホーミーを歌うモンゴル系トゥバ人のグループが何度か公演や、公開レッスン(?)のために何度か来ており、私も行ったことがある。

2007年11月11日

ドゥブラの作品演奏会

 リハルツ・ドゥブラという作曲家がいる。まだ40代だが、既に宗教音楽の若き巨匠としての地位を、確立している。
 11月10日、旧市街の聖ペテロ教会にて、ドゥブラの作品のみをとりあげた演奏会があった。聖ペテロ教会はノッポの塔が展望台になっており、観光客が一度は訪れる場所であるが、演奏会も時々開かれるのである。演奏は中等学校の生徒たちで、彼らの発表会という形だったので、お客さんは彼らの家族が大半だったかもしれない。演奏のレベルもそこそこであった。
 それでも、ドゥブラの作品を聴く機会はそう多くはないし、一つの演奏会がドゥブラだけ、というのはめったにないので、十分楽しんだ。
 印象深かったのは「小交響曲第4番」である。木管が中心となって紡ぎだす旋律は、たとえようもない美しさ。それを支える弦楽器の動きは、ペレーツィスを思わせるところもあった。ちなみにペレーツィスは作曲を教えていないので、師弟関係はないだろうが、知らず知らずのうちに影響を受けた、ということはあるかもしれない。
 ともかく、40代前半でこれだけ大成した作曲家がいるのだから、ラトビアの音楽界は人材に事欠かない。

2007年11月3日

ラトビア民謡の講演会

 知人から面白い招待状を(メールだが)もらった。
 ラトビアの伝統的な民謡のことをダイナ(複数形はダイナス)というが、その歌詞に歌われている「石」という単語の起源について、講演会があるというのだが、その講演者がフランス北部ののブルトン人(ケルト系)で、ラトビア語を流暢に話す人だということである。知人はその企画をしていたのだった。
 11月1日午後6時、勝手知ったるラトビア協会の、さほど大きくないホールは、6時近くになってほぼ満席の状態であった。 講演者については「ダイナの研究で修士号を取得」と書いてあるだけだったが、確かに若い男性であった。チラシには、ラトビア語に非常に堪能なので、講演はすべてラトビア語で行なうと書かれており、はたして、なかなか上手であった。しかも、ラトビアへやってきたのは5,6年ぶりだという。私など、ずっとこちらに住んでいるのに、たどたどしいのだから、恥ずかしい。そして、サンスクリットやベーダ語、古アイスランド語などの該博な知識を駆使して、縦横無尽に語るのには、一同圧倒されたものだ。
 講演が終わり、10数人の人が残って、しばらくおしゃべりをしていた。その後若い人5,6人(私も一応若い、ということで)で飲みに行くことになった。外国語がいくつもできる天才というのは、やはりどこか変わっている。ほかのラトビア人たちは、日本人とブルトン人がラトビア語で知的な(?)会話をするのを、面白がって聞いていた。
 日曜日、そのときいた友人の誕生祝いを兼ねて、民謡を歌う会をやるというので、我々一同お誘いを受けた。初対面の人が多かったが、殆どがアメリカ、ドイツ、カナダなどの移民二世だった人々で、ラトビア語はよくできるがほんの少しなまりがあったり、英語やドイツ語のほうがよくできる、という人たちであった。木曜日も一緒に飲んでいたA嬢は、声を張り上げる昔ながらの野趣あふれる歌い方で、知っている歌の数も半端でなく多いのだが、レパートリーにラトガレ民謡が多いので、そっちの出身なのかと訊いたら、「いいえ、リーガよ」と、ラトガレ方言で答えていた。さらに、 エストニア語、リーブ語の他、バルト・フィン系のイジョル語の歌まで披露してくれた。
 こうして親しくなったブルトン人の友人だが、今はベルリンに住んでいるという。以前、ラトビアにいたころはフランス語の講師をしていたそうだ。もうベルリンは飽きたので、またラトビアに舞い戻るか、それとも彼のことだから、別の言語を習得して別の国に赴くかもしれない。またクリスマスにラトビアに来るかもしれないと言っていた。そのときが楽しみである。