ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2006年12月10日

ラトビア交響楽コンサート

 12月9日(土)、国立オペラ座にて、国内の3つのオーケストラ、3人のソリスト、4人の指揮者による標記の演奏会が開かれた。3部に分かれ、開演7時で終了は10時過ぎだから、なんとも大掛かりなものであった。
 会場はほぼ満員。私は2日前に切符を買ったが、その時点でほぼ売り切れであった。ラトビア人も、クラシック音楽といえばまずドイツものやオーストリアもので、ロシア音楽も人気があるということで、ラトビア音楽だけではそうそう満席になることはなさそうなのだが、今回はいろいろ特別企画が組まれていたのと、宣伝に力を入れていたためか、大入りであった。
 オケピットをかさ上げしたため、舞台は随分広く使っていた。司会進行はラトビア・ラジオのクラシックチャンネルで活躍しているグンダ・バイボデさん。第一部はラトビア音楽の古典とも言うべき、このブログでもしばしば取り上げているヤーニス・イワノウスと、V.ダールズィンシュの作品。第2部は、現代の作曲家の作品。作曲家でピアニストのプラキディスによる、ロッシーニのパロディーのような作品。弦楽ソナタあたりをイメージしているのだろう、編成はチェロ独奏と弦楽合奏。この作品は、初演が今年11月の独立記念日コンサートで、独奏者は同じ若手の女性。それから、音楽学者でもあり、ラトビア国立響の団長でもあるブレゲ女史の交響曲第2番、世界初演と続いた。第3部は西部の地方都市リエパーヤの、リエパーヤ交響楽団の客演。オコロクラクスという、まったく忘れられていた作曲家の作品。実は彼は別のペンネームで、シュラーゲル音楽の作曲家として西欧では有名だったらしい。最後は老作曲家R.カルソンスのバイオリン協奏曲。ソロはエリザベート・コンクールで優勝し、日本を含む世界中で活躍している、バイバ・スクリデ嬢。
 今回、私が以前から追いかけているペレーツィスの作品は取り上げられなかった。彼の交響楽作品はあまり多くない。でもペレーツィスだけがラトビア音楽ではない。ラトビア交響楽を古典から現代まで時間の許す限り取り上げ、この演奏会のための委嘱作品を織りまぜ、しかも知られざる作曲家の作品まで発掘して、大変素晴しい企画であった。ごちそうさまでした。

ニューヨークの雑誌に記事掲載

 以前、ラトビアの東洋学者・バルト学者ペーテリス・シュミッツのことを書いたが、彼と日本語学者スパルウィンの二人について短くまとめた私の記事が、ラトビアの学生連合機関紙「ウニウェルシタス」に掲載された。実は1年以上前から依頼があったのだが、わずか2ページほどの記事にも拘らず、ずっと先延ばしにしてしまっていたのである。
 日本ではスパルウィンというと、日露・日ソ交流史を研究している人々の間では知られていて、東京外語でロシア語を教えるなど(同僚に二葉亭四迷がいた)日本に長く住み、またウラジオストクの極東大学東洋学科設立に参加するなど活躍したが、実はラトビア人なのである。ソ連時代はソ連市民として、日本ではソ連の外交官として活動した(当然、ソ連共産党員であっただろう)から、現在のラトビアではまったく忘れられているというか、黙殺されている。
 以前から二人のことは気になっていたのだが、一昨年から去年にかけての冬に日本で偶然読んだ資料がきっかけで、ロシアでの彼らにどういう接点があったのか少し分かったので、ちょっとしたものをまとめてリーガでのある会合で発表したのが、そこに参加していた編集者の関心を引いたというわけである。
 この雑誌は1930年創刊であるが、ソ連時代は西ドイツに亡命して刊行されていた由緒ある機関紙で、編集長はラトビアにいるが、編集部は現在もニューヨークにある。スパルウィンの政治的立場から、こういう雑誌に載せていいような内容なのかと思ったが、編集部には好評だったので、喜んで寄稿した。発行部数は3千部ほどで、ラトビアに割り当てられる部数が少なく、私も1部しかもらっていないという状況なのだが、全世界の亡命ラトビア人を中心に読まれているという。誠に光栄なことである。

散文朗読会

 12月最初の週末である2,3日に、若手作家を中心とした朗読会が、いくつかの会場を利用して行なわれた。
 今年で3回目だったらしい。詩の朗読会は以前から、9月頃に開かれている(私は去年、参加したことがある!)が、散文の方はまだ始まったばかりである。やはり詩の方が人気があるのだろう、1週間あまりにわたって開かれるあちらと違い、散文の方は小ぢんまりとしたものである。それでも文芸誌の編集者らが集まり、審査を行なって最後に授賞式で幕を閉じるのである。
 初日12月2日(土)の午後、新聞ディエナ紙の本社ホールを利用しての朗読会を聴いてみた。殆どがラトビア人による、ラトビア語での朗読なのだが、若手ロシア系詩人のセルゲイ・チモフェーエフ氏の朗読もあった。彼はこのイベントでは、BGMを手がけるなど大活躍している。今回の彼の朗読は最初に少しロシア語で、その後はラトビア語であった。
 翌3日(日)の昼は、「アンダルシアの犬」というレストランを借り切って、若手作家による朗読会が行なわれ、同時に昨年の朗読会が本になり、そのお披露目があった。司会は若手の男性で最も活躍しているパウルス・バンコウスキス。彼はソ連崩壊後、ソ連時代のラトビア社会というテーマにいち早く取り組んだ作家として注目されている。
 このように若手とはいってもかなり有名な作家も、参加している。その一方で、プロではない一般の人も参加する機会があった。3日(日)の夕方5時からは、リーガ城の中にある文学博物館にて、駆け出しの作家やアマチュアの人たちの作品朗読があった。
 同日8時からは、しばしば文化イベントが行なわれる鉄道博物館ホールで、最後の朗読会が催された。若手女性作家のインガ・アーベレ、ノラ・イクステナなどのラトビア語による朗読があったのはもちろんだが、エストニアやアイルランドの作家が英語で朗読したり、ロシア人でラトビアの詩人ライニスをテーマとした作品などを書いているロアリド・ドブロベンスキー氏が最初だけラトビア語、あとはずっとロシア語でこっけいな作品を読んだ。ロシア語の分かる者は抱腹絶倒だったのだが、そうでない人はキョトンとしていて、現在のこの国の言語をめぐる状況がよくわかる。

2006年12月4日

スタイツェレ

 11月25日(土)、北部のスタイツェレという小さな町に行って来た。
 人口1200人ほどの小さな町だが、先住民族リーブ人の博物館があり、そこを訪問して、地元のリーブ人と交流するというイベントを、若者のグループが企画したのである。
 地元のリーブ人といっても、この地方のリーブ人は19世紀半ばには殆どラトビア人に同化されてしまい、言葉はそれ以降話されなくなった。だから、アイデンティティはラトビア人であっても、たとえば「実はひいおじいさんがリーブ人だった」という話が語り告がれている程度である。もっともリーガなどでも似たような状況だ。
 午後3時前、8人ほどの仲間と共にエストニア国境の町アイナジ行きのバスに乗り込んだ。大変な混雑で、あらかじめ切符を買っていなかった私は危うく座れなくなるところだった。途中でだいぶ乗客が降り、ようやく仲間達と固まって座ることができた。
 6時過ぎにスタイツェレ到着。関係者(といっても10代だが)が迎えにきてくれた。町の図書館を開けてもらい、荷物を置いて休憩。博物館を訪れ、町を散歩した。といってももう真っ暗なので、懐中電灯を持って歩いた。
 博物館は、かつてリーブ人が住んでいたが、ソ連時代接収され、荒れるに任せていた住居を、小綺麗に改装したものである。1999年に西部のリーブ文化の中心地マズィルベで作られたという、ビールの瓶には、リーブ語でいろいろ書かれたラベルが貼ってあって面白かった。
 その後9時にリーブ人歌手ユルギーさんが到着。イベントはささやかなもので、町の図書館を借り切ってリーブの歌を歌い、民族舞踊を踊り、今後の活動計画を話し合う、というものであった。公共図書館を深夜、こういうことに貸してくれるとは、町の行政の太っ腹に感心した。
 こういう集まりでは、お互い自己紹介をするとき、各々がリーブ人の血を引いているか、という話が中心になったのだが、私については友人が「彼はリーブ人の血を引いていません」と紹介したのが何となく面白かった。日本人であることも特に言わなかった。そういえば、リーガで行われているリーブ語講座で、私自身(もちろん受け狙いで)そういう内容の作文をしたことがあったのだ。
 彼らは若手のグループ、活発で体力もある。みんな話し合いなどしていて朝6時まで起きていた。最年長の私は疲れてぐっすり寝てしまい、たたき起こされた。みんなで6時半のバスに乗り、リーガに戻った次第である。