ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2007年10月21日

アイスランド前衛音楽コンサート

 木曜のペレーツィス還暦コンサートに出演していた、国立交響楽団のバイオリニストで、私の友人ライモンツ君は、今開催中の現代音楽フェスティバル「アレーナ」の実行委員もしている。プロ・オーケストラの団員がそういうことをするなんて、面白いと思うが、日本でもそういうことはあるのだろうか。還暦コンサートの後、音楽アカデミーのホワイエでライモンツ君に会ったとき、「招待券あるから聴きに来てよ」と言われ、行ってみた。
 土曜日20時開演の、標記のコンサートは、現代アイスランドの作曲家たちの作品と、ラトビアの若手作曲家の作品を演奏するというもので、アイスランドものなんてまず聴く機会はないだろうから興味はあったが、元来現代音楽は苦手である。ちょっと迷ったが、好奇心が勝って出かけることにした。会場は大ギルド。先日書いたとおり、改修工事がすんだばかりだが、入口を入るとすぐ地下に下りて、また昇るという妙な構造は変わっていない。切符売場やトイレ、コート預り所もその地下にある。切符売場に行くと、ライモンツ君が招待券を何枚も持って立っていて、私にも1枚くれた。
 さすがに土曜のこんな遅い時間、しかも前衛音楽ということで、お客さんはそれほど多くなかった。私の席のすぐ後ろの列には作曲家のバスクス氏が座っていた。彼とはいろいろな演奏会で顔を合わせるのである。しかも、いつも近くの席だ。世界のバスクス(ちなみに、小惑星の一つに彼の名が登録された!)は、なかなか気さくな人で、いつも話がはずむ。
 さて、私はアイスランド語は全くできないし、作曲家の名前も全く知らないので、カタカナ表記には自信がないが、前半がマグヌス・リンドベルグの「コヨーテ・ブルース」、ヘクル・トウマソンの「グドルンの歌」、アトリ=ヘイミル・スベインソンの「アイスランド風ラップ」、後半がアンドリス・ゼニーティスの「e.e.カミングスの7つのマドリガル」、スノッリ=シグフス・ビルギソンの「ピアノ協奏曲第2番」というプログラムで、後半のゼニーティスがラトビア人であるほかは、すべてアイスランドの作曲家である。ゼニーティスの「マドリガル」を歌ったのがラトビア人のメゾソプラノであった他は、全員アイスランド人の演奏家たちである。
 全体的に、前衛音楽ではあるが聴きやすく、旋律や叙情性もそこかしこに漂っていて、非常に面白かった。愉快だったのはスベインソンの「アイスランド風ラップ」で、ラッパーがいるのではなく、アンサンブルのメンバーがラップをするのである。指揮者も客席の方を向いて、何やら語りかける場面もあった。みんなノリノリなのだが、顔の表情は一貫してまじめで、それがまた楽しませてくれるのであった。後半のピアノ協奏曲は大変濃密な内容の作品で、独奏者は非常に若い長身の男性であるが、研ぎ澄まされた集中力でこの作品をまとめあげた。
 彼らにはぜひ日本公演も行って、アイスランド音楽を紹介してもらいたいものだ(もし、もうしていたらすみません。情報に疎いもので)。それだけの価値はある。

2007年10月20日

ペレーツィス還暦コンサート(2)

 10月は作曲家ペレーツィス氏の60歳を祝うコンサートが二つあった。一つ目はすでにお伝えしたが、二つ目は18日(木)にあったので、報告しようと思う。場所はペレーツィス氏が教授を務める、音楽アカデミーである。
 前日の新聞に大きく取り上げられ、そこには19時30分開演と書いてあり、またインターネットのイベント情報サイトにもそう書いてあったので、19持少し過ぎに行ってみたら、なんともう始まっていた。こういうことは前にも1,2度あるが、ひどい話である。しかもプログラムがもう売り切れていた。最初の曲が終わるまで入れてもらえず、20分ごろ1曲目が終わり、ようやく入ることができた。遅刻する人が大勢いるかと思ったら、私のほかには夫婦と思われる中年の男女二人だけで、彼らはペレーツィス氏の親戚の方々であった。コンサートに遅れるのは私はとても嫌で、遅れそうなときには行かないこともある。しかしカリカリしていても仕方がない。ペレーツィスの音楽に癒されるためにやってきたのだから。
 席に着き、隣の人にプログラムを見せてもらう。今回の演目はなんと、すべて金管楽器の協奏曲である。そのことはだいぶ前に聞いていたような気がするが、その時は吹奏楽曲ばかりやるのだと誤解していた。いずれにせよ、知らない曲ばかりである。オーケストラは国立交響楽団で、独奏者は若手が大半だがラトビアのトップクラスの演奏者ばかりである。
 プログラムが手元にないので、1曲目が何だったかはわからない。2曲目はチューバ協奏曲である。正直なところ、あまり印象に残らない曲であった。次のトランペット協奏曲は、ペレーツィス独特ながらもわかりやすい節回しが随所に聴かれる佳作であった。続くトロンボーン協奏曲は、超絶技巧には聴こえないが技術的にはかなり難しく、演奏者泣かせではないかと思わせた。独奏を務めたのは若い男性で、上手なのだが何箇所か音程が飛ぶ所で苦戦していた。私には金管の演奏技術のことはよくわからないが、難しいと思われる。
 うろ覚えで演奏会評を書くのは難しい。同じ作曲家の作品ばかりということもあって、混同してしまう。上記のトロンボーン協奏曲と、そのあとのホルン協奏曲には、ピアノ組曲第4番(北條陽子さんが演奏した曲)や、白鍵協奏曲にも用いられた旋律が出てくる。何がどの曲で使われていたか、わからなくなってしまったが、知っているものには一種のなぞ解きの楽しみがある。
 最後は、トランペット、ホルン、トロンボーン、チューバのための協奏曲。壮観である。第1楽章の前半以降繰り返し出てくるリズムに、はたと聞き覚えがあった。ラトビアで人気のあるスポーツの一つにアイスホッケーがあるが、試合の日に街でファンの連中がブーブー鳴らしている笛(?)のリズムと同じなのである。ペレーツィスという人はテレビも見ず、新聞もあまり読まないという、浮世離れした生活をしているから、アイスホッケーにも関心がなさそうだが、街でたまたま鳴り物を聞いていて、そのリズムが耳にこびりついていたのかもしれない。それにしても、それを作品に用いてしまうなんて、他の作曲家はまずしないだろう。

文化フォーラム

 ブログというのは日記形式だから、まとめて投稿するというのはあまり好ましくないが、私生活がある以上、いつもそういうわけにはいかない。今回はあと数本投稿することにする。
 毎週金曜、「文化フォーラム」という新聞が発行されている。もう前号になってしまったが、10月12日発行のこの新聞に、日本関係の記事が二つも載っていた。
 一つは、国際的な詩人のシンポジウムに、ラトビアの詩人レオンス・ブリエディス氏が参加し、日本の俳人たちと知り合って、彼らの俳句をラトビア語に訳したというもの、もう一つは、雪の研究で有名な故中谷宇吉郎博士のことを調べているビクトルス・クラウチェンコ氏が、雪に関する美術展を開いたというものである。
 レオンス・ブリエディスは、実は「百万本のバラ」のラトビア語原詩を作詞した人である。日本では露訳をもとに歌詞が作られたので、彼の名は全く知られていない。これは残念なことだ。もちろん彼は日本語はできないし、日本の俳人たちもラトビア語は(おそらくロシア語も)できないだろうから、きっと慣れない英語で苦労しながらコミュニケーションをとり、翻訳にこぎつけたのだろう。
 クラウチェンコ氏は、以前から度々、中谷宇吉郎に関する活動を行っているし、私も個人的に知っている。さまざまな関心を持つ人々によって、日本とラトビアの文化的な交流が行われるのは、良いことだし面白いと思う。

2007年10月14日

民謡コンサート

 10月4日、ラトビア民謡を歌う女性ばかりのグループ「サウツェーヤス」がCDを出したのでその記念コンサートに行ってきた。会場は旧市街の英国国教会で、宗教上のつながりはないはずだが、由緒ある建物でしばしばコンサートに利用されている。
 「サウツェーヤス」とは、「呼ぶ者たち」というような意味で、女性複数形である。私もちょっとかかわりを持っている大学で4年前に結成された。さまざまな地方の歌を歌うので、わかりにくい方言の歌もある。CD発売記念コンサートということで、入場無料、CDも店より安く売っていた。これでやっていけるのか、いつも不思議なのだが、関係者はほかに仕事を持っているのだろう。CDを出したのは私の知人で、国や自治体、企業のスポンサーからお金をもらってこういう企画をするのを仕事にしている。
 ラトビアの合唱音楽は日本にも徐々に知られてきているが、このグループはもっと原形に近いというか、少人数で、声を張り上げる野趣あふれるとでもいおうか、そんな歌い方をする。こういうのも魅力的だが、ドイツなどのクラシック音楽の影響で発展した合唱を聞き慣れた耳には、違和感があるかもしれない。
 初のCDリリースということで、会場にはスクリーンを設置してスライドを上映し、多くの人が花束を手にするなどお祝いムードであった。終了後、リーダー(?)がゆかりのある人々の名を挙げ、前に呼んでいたが、グループの母体である大学の学長は呼ばれたものの会場にいなかった。「じゃあ、ほかの大学関係者の方」誰も名乗り出なかった。
 会場にはセルゲイ・アリョンキンというロシア人学校の先生も来ていた。彼は生徒たちとともに、ロシアやベラルーシの民謡を歌うなど、フォークロアの活動に熱心である。何でもロシアのオムスクでフォークロア・フェスティバルがあり、その支度をしているところだという。列車でモスクワまで行き、さらに列車を乗り換えて2泊かかるそうだ。長旅である。彼もゆかりのある人なので、前に呼ばれていた。
 コンサートが終わると、お祝いということで軽食や飲み物(アルコールも)が出され、おしゃべりを楽しんだ。リーダーの女性は私に「さっき、あんたのこと呼んだのに」ああそうだったのか。いや、そういう気もしたが、私の名が呼ばれたのではないので、しゃしゃり出るのも気がひけたのである。
 アリョンキン氏はラトビア語もできるので、みんなとの会話はラトビア語になったり、ロシア語になったりと、和気藹々であった。私のラトビア人の友人は、私がロシア語ができるかどうか知らないので、こういう機会に私がロシア語を話すと、驚いたり、なぜか喜んだりする。ラトビア人はかたくなに、ロシア語を話すのを拒否すると思われているが、個人差があり、またケースバイケースである。アリョンキン氏はフォークロア活動をする仲間だから、受け入れられているのだ。こういうことは外国人にはなかなか飲み込めない。私も最初は戸惑った。今はもうだいぶ慣れたが、それでも時々ちょっとした違和感を覚えることがある。

2007年10月4日

ペレーツィス還暦コンサート(1)

 10月3日、リーガ中心部のラトビア協会にて、作曲家ペレーツィス教授の還暦記念コンサートが行われた。コンサート情報を調べたら、「入場料は寄付」と書いてあったが、行ってみるとこの協会に勤める知人が招待券をくれた。机の上に置かれたプログラムの脇には「プログラム代は寄付」と書いてあった。どっちなんだろうか。まあどっちでもいいや。
 出演者は有名なプロというより、音楽アカデミーの教官、学生たちなので、お客はそれ程多くなく、内輪の行事という雰囲気であったが、お祝いのコンサートなので、その知人(コンサートや音楽関係のイベントで、やたら司会進行をする人である)が最初だけ挨拶をし、女性の司会進行役にバトンタッチした。彼女は音楽情報センターに勤めているようだ。
 最初の曲はピアノソナタ、1988年の作品である。演奏したのは女性のピアニストで、音楽アカデミーの院生か教官ではないかと思う。続いて、「秋のプレリュードとフーガ」の初演。編成が変わっていて、バイオリン、フルート各1、サックス3(アルト、テノール、バリトン)である。バリトン・サックスを吹いていたのはオーストリア人で、どうやら音楽アカデミーに留学しているらしい。音楽の中心地、オーストリアからラトビアに勉強に来るとは、面白い。
 その次は、歌曲集「記憶の舟の中で」という、詩人A. スマガルスの7編の詩に曲をつけたもの。スマガルスという人は、ラトビアでもそれ程有名ではない。ラトビアの古い伝説などを元にしたロマンチックな内容の歌詞で、音楽もそれに良く合ったものであった。テノールはかなり若く、まだ学生のようだが、非常に上手であった。
 最後は、しばしば謎めいた曲名をつけるペレーツィスらしく、「壁の向こうの音楽」という。以前何かのインタビューで読んだことがあるが、新婚当時住んでいたアパートが安普請で、隣家の話し声などが聞こえてくるので、着想したのだという。そして、この曲が奥様に捧げられたものだということは、この日の演奏前の本人のトークで初めて知った。結婚40周年でもあるのである。それにしても、二十歳で結婚とは、早い。この曲も編成が変わっていて、バイオリン、ビオラ、チェロ、ファゴット各1である。初めはバロック音楽そのもので、弦楽三重奏で後からファゴットが登場する。これはビバルディの作品です、といったらみんな信じてしまうのではないだろうか。しかし2楽章辺りからペレーツィスらしい音楽になってくる。
 このコンサートは、ラトビア協会主催の室内楽シリーズの一環であった。ペレーツィスの管弦楽コンサートについては、またの機会に報告したい。