ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2006年11月19日

ペレーツィスのコンサート(補足:イワノウス100周年余滴)

 私が90年代後半から追いかけている、ラトビアの作曲家ペレーツィスは、どうもここ最近本国で大ブレイクしているようである。なんと、今週だけで彼の作品が二つ演奏された。
 11月15日は、彼の「ラトビア・レクイエム」の世界初演。少し前に書いたように、彼は正教徒だが、初演が行なわれたリーガ大聖堂(ドーム)にこの作品を捧げているというのが面白い。編成は歌手のソリストが4名、合唱団、オルガン、器楽のソリストが5, 6人いたと思う。14曲からなり約1時間20分の大作である。
 はっきりいって、これは大傑作である。周りの人も感激していたし、終わったときの会場全体の雰囲気はただならぬものがあった。私はこの大聖堂で数え切れないほど演奏会を聴いているが、こんな雰囲気に包まれたことは、まずなかったといって良い。ラトビア音楽史にその名を残す傑作となると、私は自信を持って言える。
 11月18日(土)、ラトビアの独立記念行事の一環として、ラトビア大学講堂で催されたコンサートでは、世界的なバイオリニスト、ギドン・クレーメルの指導の下、バルト三国の若手弦楽器奏者たちにより結成された、クレメラータ・バルティカが、ピアニストなどと共演し、さまざまな作曲家の作品が演奏された。シュニトケ、チャイコフスキー、マスネなど。独立記念コンサートなのに、ロシアものもやるというのが面白い。音楽は音楽として純粋に楽しむという姿勢なのだろう。ラトビアの作曲家の作品は、現代ものがカルルソンス(音楽院学長)、プラキディス、古い作曲家ではヤーニス・メディンシュで、最後を飾ったのがペレーツィス「Revelation(啓示)」であった。リーガでは初演となる。既に、スイスのバーゼルとラトビア中部のリゾート地、スィグルダで演奏されている。
 さきの「ラトビア・レクイエム」も含め内省的な作風のペレーツィス作品の中には、時として底抜けに明るい軽快なテンポの楽章が挟み込まれていたり、それだけで1つの短い作品をなしていたりすることがある。この『啓示』もそういう傾向の曲だが、編成も変わっていて、弦楽合奏にピアノ連弾、カウンターテナーというのだろうか、高音域の男声ソロ、トランペットソロ、である。彼の作品には編成の変わったものが多い。音楽学者の遊び心なのだろうか、とも思えるし、同時に緻密に計算されていて作りこまれているのも感じられる。この曲も私は気に入ってしまったし、終わったときの聴衆たちの「ブラボー」も凄まじかった。文化大臣や音楽界の重鎮が多数出席しての国家行事であったのに、ほとんど怒号にも似たブラボーの嵐で、大いに盛り上がり幕を閉じたのである。その中で、引っ込み思案なペレーツィス氏は前に出てきてそれに応えるとき、本当に極まり悪そうだった。

 なお、補足だが、独立回復記念日のイベントとして、10月に取り上げたイワノウスの管弦楽コンサートも行なわれた。そこでは、私も知らなかったが、彼の作風には一見ふさわしからぬ「タンゴ」が演奏された。司会者が「実はイワノウスも『タンゴ』を書いているのですよ」と言っていた。ラトビア音楽を愛好するもの、このことが何を意味するのか知らないといけない。1957年生まれの今非常に油の乗っている作曲家、アルトゥルス・マスカツが、「タンゴ」という作品を発表、好評を博したのである。私はマスカツにも非常に関心を持っていて、機会があれば日本で紹介したいと思っている。

2006年11月16日

スカンディニエキ

 11月11日(土)、フォークロア・グループ「スカンディニエキ」の結成30周年記念イベントがあった。会場は鉄道博物館、大きなホールがありときどきイベントに利用される。
 このグループは1976年、まだソ連時代だが、民俗音楽を演奏するグループとして公認され、日本でも「世界民族音楽大系」のビデオに収録された、彼らの歌や踊りを見ることができる。私もずいぶん前に見た記憶があるし、知り合いが何人かいるので友人家族と一緒に見に行った。
 彼らの中には、このブログで度々紹介している、先住民族リーブ人も何人か入っていて、彼らのアイデンティティ復興の色彩も強い。訪れた客の中にも、リーブ人が多数いたし、プロシア人を自認する人々もいた。
 プロシアというと、プロイセンとも呼ばれるドイツの一部という認識が一般的だろうが、バルト系、すなわちラトビアやリトワニアと同じ系統の、プロシア人という民族が住んでいた。彼らはプロシア語という、やはりラトビア語やリトワニア語に近い言語を話していたが、約300年前、ドイツ人に同化されプロシア語を話さなくなったとされている。彼らの子孫を自認する人々の一部が、やはり活動を行っているのだ。彼らは現在、ドイツやリトワニア、一部はラトビアにも住んでいる。ポーランドにもいそうだが私には未確認である。
 会場で私に話しかけてきたラトビア人(?)の若者は、母語はラトビア語だが、復興されたというプロシア語をもちいて仲間と会話したり、メールのやりとりなどをしているという。私も以前資料を集めたが、現代プロシア語というのを作り上げて辞書などを作っている人々がいるのだ。しかし残念ながら、プロシア語で書かれたものは非常に少なく、全て集めても薄い本一冊程度であり、そこから現代語として蘇らせるのは至難の業である。学術的には信頼しがたいのである。アカデミックな研究者は相手にしていない。
 しかし私はそれとは別に、こういう活動に情熱を燃やしている人々がいること自体を、興味深く観察している。

2006年11月4日

ペーテリス・シュミッツ

 11月4日(土)、久しぶりに図書館をはしごして調査した。
 ペーテリス・シュミッツという学者がいた。ほぼ明治維新の頃生まれ、モスクワとペテルブルクに学び、最初は露文科だったが、専攻を中国語に変更。その後、北京大学でロシア語を教え、開設間もないウラジオストクの極東大学で中国語を教えた。中国語はその研究においても当時の帝政ロシアでトップクラスの実力を持ち、その間調査・研究したツングース・満洲諸語の研究では世界的権威であったとされる。彼が初めて文字に起こし文法を記述した言語もある。 ラトビアが独立すると、その頃ロシアの政治的状況が困難になっていたこともあり帰国。彼はそれ以前から、夏休みに何度も帰国していて、ラトビア人としてのアイデンティティを失わないよう努めていた。そして、帰国するとラトビア大教授になり(なんと、コロンビア大学からの招聘を断ったのである)、選択科目として中国語などを教えたこともあったが、主としてラトビア民話の収集と研究に力を注いだ。ソ連軍が攻めてくる少し前、病気で亡くなった。
 こんなスケールの大きな学者は後にも先にもいない。空前絶後である。全世界で、15巻もの民話集が作られた民族がどれだけあるだろうか。しかし不思議なことに、今のラトビアではあまり注目されていない。理由はいろいろあるが、まず、彼の東洋学の業績を評価できる人が殆どいないことがあげられる。私とて中国語も満洲語も出来ないし、過去の学者の足跡を追うことが本来の学者の仕事でないことは承知しているが、彼への興味は尽きないのである。
 シュミッツには未公刊の自伝があるという。それを調査するために、まずアカデミー図書館に行った。しかし貴重書室に行ってもそれらしき資料はないし、それ以外の手稿などは以前閲覧したので、成果はなかったが、見学のグループが来ていた。アカデミー図書館にある貴重書のコレクションがずらりと並べられ、館員の方が説明していた。私はシュミッツの調査などそっちのけで一緒に見学していた。見せられたものがあまりに多くて覚え切れなかったが、マルティン・ルターのリーガ市民向けの書簡、などは非常に興味深かった。他に面白かったのは、ラフカディオ・ハーンが訳した日本民話集。もちろん英語で、純和風の挿絵がみんなの目を釘付けにした。しかも紙ではなく布である。出版は明治30年代。同じシリーズでドイツ語に訳された民話集もあった。
 見学が終わった後シュミッツの話をしたら、自伝は国立図書館の貴重書室にあるのではないかという話だったので、すぐ行ってみた。旧市街の大聖堂(ドーム)からも程近い、議会の斜め向かいである。しかしそこにもなかった。その代わり、シュミッツの子息が1962年に、タイプ打ちで6ページにまとめた父親の略歴と、ラムステットが1913年にロシア語でシュミッツにあてて書いた手紙を閲覧することが出来た。両方とも面白かったが、前者には、ラトビア大学でシュミッツの元でポーランド人研究者が中国語学を研究し学位をとった、という話が初耳で、面白かった。残念ながら名前は出ていなかったが、調べはつくだろう。後者のラムステットというのはフィンランドの東洋語学の巨頭で、駐日公使も勤めた人物。彼の手紙は非常に美しいキリル文字の筆記体で、眺めているだけでも楽しい。彼とシュミッツの間にどういう接点があったか探っていたところだったので、これは貴重な成果であった。

イタリア・バロック・コンサート

 11月3日(金)、夕方6時から聖ペテロ教会にて、標記の演奏会が行なわれた。 その前に用事があってラトビア・ラジオに行った。北條さんのコンサートの録音をしてくれたK氏に会ったのだが、ソ連時代末期の人間の鎖(皆さん、覚えていますか?ここでは「バルトの道」と呼んでいる)のいわばテーマソングともいうべき曲の譜面のコピーをいただいた。同じ旋律にバルト三国の3つの言語の歌詞がついている。こういう曲はありそうで、なかなかない。
 それでも時間があったので音楽ショップをのぞいてみた。最近国内で出たCDは、と尋ねると何枚か知らないのがあったので、2枚購入。
 1枚目は二人のラトビア人作曲家の合唱曲集。エッシェンワルツは若手のホープ。ドゥブラも若手に属するが宗教音楽の分野では確固たる地位を築いている。先日私の大学時代の同輩T氏が旅行で当地にやってきたときも、ちょうどリーガ大聖堂(ドーム)でドゥブラの作品をやっていたので一緒に聴きに行った。もう一枚はブリエシカルンス率いるジャズ・クインテットがラトビアのさまざまな時代の作曲家の作品を編曲して演奏したもの。たまにはこういうのも面白そう。
 さてその後、会場を勘違いしてヨハネ教会に行ってしまったが、ペテロ教会までは歩いて2,3分なので間に合った。ここは観光客の大多数がエレベーターで上るであろう、旧市街で一番高い展望台のある教会だが、たびたび演奏会も行なわれる。趣があっていい場所だ。この日は音楽アカデミーの学長も来ていた。演奏会は、コレルリなどの合奏協奏曲を2曲やった後、休憩なしでストラデッラという、大バッハより30年ほど前に生まれた作曲家のオラトリオ。やはりバロック音楽を聴くと気持ちが落ち着く。