ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2007年5月27日

皇后陛下の御召し物

 5月25日、天皇・皇后両陛下が欧州歴訪の一環として、ラトビアを訪問されたことは、日本のメディアで報道されていると思うので、ここでは、私はなるほどと気づいたが、おそらく誰もまだ取り上げていないであろうことを、ちょっと書いてみようと思う。
 ご訪問の当日、現地のある朝刊紙に、前日のエストニア訪問時の写真が出ていた。場所は大統領宮殿である。皇后陛下の帽子は白の地に、青と黒のアクセントがあった(うまく表現できなくてすみません)。そのとき私は、「これはエストニアの国旗の色だな」と思った。しかし記事はそのことに触れておらず、単なる偶然かもしれないと思っていた。
 ところが、ラトビアご訪問のニュースを、当日夕方のニュース番組で見ていたら、ラトビア大統領官邸での皇后陛下の御召し物は、深紅と白で、ラトビアの国旗の色であった。そしてレポーターが、「皇后陛下の御召し物は、訪問国の国旗の色でデザインされている」という趣旨のことを言っていた。
 翌26日はリトアニアだったのだが、現時点でまだ写真が見つからないのでわからない。
 上に書いたことが本当なら、なかなか粋な計らいだと思う。もしこのことをご存じの方、皇室のことに詳しい方に、コメントをいただければ幸いである。

2007年5月11日

CDプレゼンテーション

 ピアニストの北條陽子さんが4月にCDを出したことは、すでにお伝えしたが、そのプレゼンテーションが10日(木)、行なわれた。場所は作曲家連盟である。
 どういういきさつでそこでプレゼンをやることになったのか、だれが言出しっぺだったのか、万事好い加減な私は正直なところ覚えていないのだが、私が軽い気持ちで何か言ったのに対し、向こうがとても乗り気になり、実現にこぎつけたのだと思う。しかし、なかなか日時の折り合いがつかず、2度ほど延期してようやく開催できた。2日前に同連盟会長からメールで招待状が届き(宛先にたくさんのアドレスがあったので驚いた)、当日は手狭な会場に多くの関係者が駆けつけてきてくれた。
 ペレーツィス氏は勿論、CDのもとになったリサイタルの録音をしたクルベルクス氏、前作曲家連盟会長、音楽図書館の代表などが来ていた。週刊誌の記者も来た。有名人のゴシップなどを載せている雑誌だが、数日前に私にインタビューの申し入れがあったので、ならばこの企画のことも書いてもらおうと思ったのと、なかなか時間が取れなかったので、来てもらったのである。初めに、昨年9月にこちらで行われた北條さんのリサイタルの翌日、プレゼンの司会をした音楽学者のボミクス氏が、その時の模様を語ってくれた。この人は司会がうまいので、話を聞いていて「おお、そうだったのか」と感心してしまった。私はそのとき通訳をしたはずなのだが。CDを全部聴ければよかったが、ペレーツィス作品が演奏されたことが重要なので、まずそれを聴き、それから日本の作曲家の作品を聴いた。私は北條さんのメッセージを伝え、「先日ラジオで言いましたが(懲りずにラジオ出演の自慢である)、ペレーツィスの音楽は日本人に受け入れられやすいと思います。もしかしてラトビア人よりも?そのことは東京リサイタルのお客さんの反応で示されました」といったら、やはり意外だという反応があった。
 その後、皆でワインやブランデーを片手に、届いたばかりの東京リサイタルのDVDを見ることになった。私の印象では、ペレーツィスの「第4組曲」は東京リサイタルの方が2度目ということもあってか、良かったと思う。会場はなんだか、終始とても和やかな雰囲気であった。それから別室で二次会(?)となり、久しぶりに随分おしゃべりをした。

2007年5月5日

連休(2)

 5月4日はその独立回復宣言公布記念日である。
 友人が、ドキュメンタリー映画の招待状をもらったというので、一緒に見に行った。戦前ラトビアが独立していた頃、ミノックスという小型カメラがここで生産され、全世界に輸出されていた。日本で出ているガイドブックにもコラムがあるので、ご存じの方も多いかもしれない。映画は、この小型カメラを開発した人(ユダヤ系ドイツ人?)のインタビューを中心にまとめられている。ドイツ語だからラトビア語の字幕が入っていたが、エストニアを訪問した時、エストニア語を思い出してしゃべっていたので友人が驚いた(友人はエストニア語の専門家である)。
 この人はソ連占領時にドイツ、その後スイスに亡命した。世界のミノックスの開発者だから、当然カメラメーカーを再び立ち上げ、開発研究の仕事をしたが、発明者にはありがちなことでどちらかというと不遇だったようである。2003年だったか、98歳の生涯を閉じた。映画は彼の晩年、半世紀以上ぶりに、若いころ仕事をしていたラトビアとエストニアを訪れた模様を撮影したものである。
 この日は「映画マラソン」というイベントが行われていて、ミノックスのドキュメンタリーもその一環であった。その後、アニメーション映画「私は奏で、踊る」の上映が予定されていたので、私たちはそのまま残っていた(友人がもらった招待状が、ほかの映画にも有効だったのかは定かでない。だいたいこの国は、そういうことにはおおらかである)。このアニメは、詩人ライニスの同名の戯曲を元に作られたもので、テキストはすべて歌になっている。音楽は民族音楽アンサンブルを率いる有名な音楽家たちが担当していて、素晴らしいものに仕上がっていたが、アニメはひどかった。友人も同意見であった。

連休

 ラトビアでは5月1日と4日が祝日なので、日本と同様長期休暇を取って旅行などに行く人が多い。
 5月3日(は平日である)、懇意にしているラトビア大学の教授が、ユニークな辞書を出版し、その記念パーティーが開かれた。この先生はフォークロア(民謡や民話などの、民間伝承)研究者だが、文学などそのフィールドは幅広い。人文学部長で、科学アカデミー会員でもある。だからパーティーも盛りだくさんの内容で、民謡アンサンブルなどさまざまな人が出演したようである。私は用事があったので残念ながら遅れてしまったが、まだ多くの人が残っていた。 知り合いも大勢いいたが、中には[ラジオ聴きましたよ]と言ってくれる人もいて、照れくさかった。テレビが取材していたが、私までインタビューを受けてしまった。ニュースなどではなく、特集番組を作るのだという。テレビに出るのは久しぶりである。
 そろそろお開きという頃、教授が中心になって、中心部の「自由の記念像に献花しましょう」ということになった。教授はたくさんの花束をもらったので、その一部をみんなで手分けして持っていって献花した。その時教授が「以前にもこういうことがありましたね」といったので私はちょっと驚いた。たしかに、随分前にもこの先生の本の出版記念パーティーがあって、その後、皆で献花をし、私もついて行ったのである。
 翌4日は1990年、ソ連からの独立回復宣言が行われたのを記念する日であった。例年、この記念碑前では国の行事が行なわれ、大統領らが献花を行う。だから我々は1日早く献花したわけである。

ノルウェー宗教音楽

 先週木曜、オルガンで有名なリーガ大聖堂にて、ノルウェー宗教音楽の演奏会があった。珍しい?ジャンルだし、大聖堂は久しぶりなので行ってみた。この日は大ギルドで別の大きなコンサートがあったせいか、大聖堂は人が少なかった。早めに会場に着くと、作曲家のバスクス氏がいて、ちょっとお喋りした。彼は国際的にも非常に有名だが、とても気さくな人で、ラジオ出演の話をしたら喜んで、「必ず聴きますよ」と言ってくれた。最近、小惑星か、新発見の恒星か忘れたが、彼の名がつけられた。その位偉い人なのである。実はラジオの収録の時、司会のサンドラさんが、「あなたはバスクス氏に『ラトビア音楽の友』と呼ばれているそうですね」といってくれた。自分で言うと嫌味だから、他人に言わせたわけである。とここで書いていること自体が、嫌味だが。
 我々はプログラムを買って着席した。隣に、ひとりで来ている女性がいて、「そのプログラムはどこにあるんですか」ときいてきたところ、バスクス氏はさっと立ち上がって、プログラムを買いに行き、戻ってきて彼女にプレゼントした。世界のバスクスが、である。こういう所がジェントルマンなのだなと感心した。私など、全然修行が足りない。
 プログラムは勿論ノルウェーの宗教音楽なのだが、グリーグの、宗教音楽でない作品のオルガン編曲などもあったし、最後の作品は素晴らしかったが、スコットランドの作曲家の作品であった。やはりマイナーなジャンルのようである。