ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2009年5月31日

植物園

 5月24日(日)、リーガ市内にあるラトビア大学付属植物園に行ってきた。すぐ下のドベレの果樹栽培研究所の方が後なのだが、投稿の順序が逆になってしまった。(続きはまた書きます)

ライラックの町

 5月30日(土)、以前から気になっていた果樹栽培研究所へ行ってみることにした。
2週間ほど前だったか、テレビで、ライラックに魅せられ、さまざまな品種のライラックを植えることに生涯をささげた男の話をしていて(しかも、それをわざわざ日本から見に来た人がいる、とも言っていた)、それがここから南東約70kmのドベレという町にある、国立果樹栽培研究所に隣接している、と言っていたのだ。すべて初耳であった。
 リーガからドベレへはバスで1時間半ほどかかる。ほとんどの便はイェルガワという都市を経由する。イェルガワは何度か行ったことがあるが、かつてはクールラント公の居城のもと栄えた町で、お城は現在農業大学になっている。
 今回はここでは降りず、さらに30分ほどバスに乗ってドベレへ向かった。バスターミナルの前は閑散としていて、少し離れたところにスーパーが1件あるほどの小さな町で、さっき通り過ぎたイェルガワが大都会に見えてしまう。小さな川に沿って住宅街の中を2km程歩くと目的のライラック園があるということだが、途中、「健康の小径」と名付けられた散歩道があり、ここを通ってみることにした。最初は良かったのだが、程なくして道らしい道もない森の中で、何とか住宅地へ「脱出」した。アパートや一軒家が結構多いのだが、ゴミもほとんど落ちていないし、清潔な街という印象を受ける。中心部近くの15世紀末建立の教会も瀟洒なたたずまいを見せていた。教会の周りもライラックだらけである。
 それはそうと、なんとか目的の研究所にたどり着いた。周囲には車が何十台も止まっている。リトアニア人の家族連れもいる。ここはリトアニア国境から近いのだ。(続きはまた書きます)

2009年5月28日

ふたりのヤッフェ

 どうも最近、演奏会に行く機会がなく寂しかったのだが、28日(木)、リーガ大聖堂に行ってきた。世界初演があるよ、という話だったので楽しみであった。
 リーガ大聖堂といえばオルガン、そして今回の演奏会ではチェロと合唱も活躍する。出演者はオルガンがアダマイテ女史、合唱がスィルマイス率いる国立アカデミー合唱団「ラトビア」、チェロ独奏がラモン・ヤッフェというリーガ生まれでイスラエルに移住したユダヤ人である。
プログラムはフランクの「コラール第3番」、ドン・ヤッフェの「死のフーガ」(世界初演)、バッハのコラール前奏曲「おお人よ、自らの罪を嘆きたまえ」、現代イギリスの作曲家で日本にもファンの多い(多分)ジョン・タブナーの"Syvati"、そしてクヌト・ニーステット(?綴りはKnut Nystedt)の「スターバト・マーテル」であった。
 ドン・ヤッフェはラモンの父親で、やはりリーガ生まれのユダヤ人ということだ。(続きはまた書きます)

2009年5月24日

人形博物館

 23日(土)、中央駅裏手の地区を散歩した。中央市場があり、周辺はバラックや貧困層の住居が目につき、治安が悪いと悪名高い地区だが、何を隠そう私はこの地区に住んでいたことがある。危険な目にあったことはないが、真っ昼間から酔っぱらいがうろうろしているようなところである。観光客が足を踏み入れることはまずないだろうが、個人旅行者にはくれぐれも気をつけていただきたい。
 周辺には百年以上前の建物も多く(再開発が進んでいない、ということでもあるが)、なかなか趣きのあるものもある。「スピーキェリ」という、レンガの倉庫群が改装されて商店やオフィスなどになっている一角があり、最近注目のスポット(だと私が勝手に思っている)なのだが、のぞいてみると人形博物館というのがある。知らなかった。最近できたようだ。
 入場料は大人5百円弱、この国の博物館としては高い方だが、個人経営の博物館なので寄付のつもりで払った。中年の女性が懇切丁寧に説明してくれた。国内外から様々な人形を集めて展示しているが、日本人形が一体だけあり、小さな女の子の人形だが、外国によくあるインチキな日本っぽいの、ではなく正当な日本人形であった。ラトビア国内のものでは、戦前の独立時代のものと、ソ連時代のプラスチック製の安っぽいのを比較できて面白かった。
 翌朝、テレビをつけてみると、その人形博物館が紹介されていて、同じ女性が解説していたのでちょっと驚いた。

2009年5月6日

雨宿り

 4月後半から5月初めにかけ、何週間も雨が降らなかった。乾燥してのどがいがらっぽい。周りにもそういう人がたくさんいた。しかし、連休が開けてから(ラトビアでは5月1日と4日が祝日なので、今年は4連休)、6日の晩にザァーっときた。ちょうど私は帰宅途中で、旧市街を歩いていたところであった。傘など持っていないので雨宿りをしようと、ガレージのようなところに入った。すると、若い男と中年の女性が話をしている。ちらっと見てみると、若い男はラトビア文学センター所長のヤーニス君(まだ20代!なので君付けにさせてもらう)、中年の女性は詩人のランガ女史であった。
 「最近どうですか」何しろ経済危機と呼ばれる状況、文化関係者はどうしているのかと心配になる。ヤーニス君は「今は大変だけど、まあ来年はどうにか、ね」
 景気回復は来年、という説がある。ちょっと楽観的じゃないのかな、とも思うのだが、まあそういうことにしておこう。そう思っているうちに雨がやんできた。

2009年5月4日

ラトビア語について知る本(4ページだけ...)

 このブログの読者の中には、ラトビア語に興味を持ち、勉強してみたいと思われる方もおられるかもしれない。しかし、残念ながら、日本人向けに日本語で書かれた教科書は出版されていない。唯一、村田郁夫編[ラトビア語基礎1500語](大学書林)があるのみである。
 4月、大修館書店より[事典 世界の言葉141]という本が出版された。文字通り世界の141の言語について、それぞれの専門家(ほとんどが日本人)が4ページずつ書いたものである。ラトビア語を含めバルト三国の言語もそろっている。これは教科書ではなく、あいさつなどの基本表現が集めてはあるが、読んでもラトビア語ができるようにはならない。とはいえ日本では知ることのできない情報が詰まっていて、貴重な資料といえる。音楽に関しても色々書いてある。大型書店か図書館でぜひご覧いただきたい。
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2009年5月2日

春!

 (一部修正しました)5月1日、アフガニスタンで活動するラトビア軍の兵士2名が戦闘で亡くなり、3名(看護師含む)が負傷するということがあった。ご冥福をお祈りするとともに、負傷された方々の一刻も早い回復をお祈りしたい。それにしても、30年前に当時のソ連はアフガニスタンに軍事介入したわけだが、ソ連から独立したバルト三国の兵士が、今度はNATOの一員として兵を送らなければならないとは、何という歴史の皮肉であろうか。
 1週間ほど前から大分暖かくなり、水木は25、6度まで気温が上がったようである。当地の4月としては記録的な気温だ。しかし、ここ2日ほどはまた肌寒くなってきたから、やはり北国である。先週末、知人一家に誘われてリーガ北方40キロぐらいのところにあるサウルクラスティという海辺の小さな街に行ってきた。
 以前にも書いたが、ここの都市住民は田舎に菜園を持っていて、休暇になるとそこで畑仕事をし、小屋の手入れをするというのが普通である。日本人から見れば優雅でうらやましい限りだが、手作りだから大変といえば大変だ。室内に閉じこもらざるを得ない長い冬から開放され、屋外で食事をするのも楽しみの一つである。
 サウルクラスティに行くと聞いて、私はひとつ思い出したことがあった。別の友人に誘われて、やはりサウルクラスティ付近の彼の実家に遊びに行ったことがあったのである。砂浜を歩いていたら、キュッキュと砂が鳴くのである。日本では鳴き砂といって、砂粒が汚染されていないと摩擦で[鳴く]のだが、日本ではもうほとんどない。それがリーガ郊外にあるので感心したのだが、今回ここでも鳴き砂はあるのだろうかと、靴を脱いで砂を踏みしめてみたが、残念ながらそういう感触はなかった。このあたりには菜園がたくさんあり、人が大勢来るので鳴かなくなっているのかもしれない。以前訪れた友人の実家は寂しい漁村であった。それとも、このあたりも開発が進んできたということだろうか。