ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2009年12月19日

クリスマス・オルガン演奏会

 少し前に書いた、カシの木を引きずって練り歩く習慣だが、政治家の失言に水を差されたけれども、大会まで開かれて、誰が最も速くカシの木を引きずって走れるか、競争が行なわれたらしい。私はテレビで見ただけであるが…一連の行事に共通するのは、夜が長い上に晴れの日が少なく、気がめいりやすいこの時期を元気に過ごそうということなのであろう。
 さて、グーグルで「ラトビア 音楽」と入力して検索すると、しばしばトップにこのブログがヒットすることがある。3か月以上さぼっていたのに申し訳ない気分だ。というわけで、音楽のことも折に触れて書いていかねばと思う。
 クリスマスにはいろいろな演奏会が開かれるが、18日には大聖堂(ドーム教会)で、オルガン、合唱、ベルの演奏会があったので行ってみた。
 ベルというのは日本でも最近見る(聴く)機会が増えたが、10人ぐらいで小さな鐘の様な楽器を鳴らすものである。音階や和音を作るために何十本ものベルを机に並べて、それをひっきりなしに持ちかえ、振って鳴らすのである。この日の演奏会ではベルの合奏団はベル単独で、オルガンや合唱との共演はない。大聖堂のオルガンというのは入口を入ってすぐのところの頭上にあるが、祭壇や舞台(のようなもの)は反対側の一番奥にある。ベルはそちら側で演奏したが、離れていても不都合はなかったわけである。合唱団はというと、頭上のオルガンのところにいて、声はすれども姿は見えず、であった。だから曲によって、前で演奏したり後ろで演奏したり、というわけだ。客席は横向きか正面(舞台の方)を向いているので、オルガンはお客さんから見て側面か後ろに位置するわけだが、オルガンの音は教会全体に鳴り響くし、そもそも演奏している姿が全く見えないので、不都合は感じない。
 最初の曲はベルのために編曲された、フランスの伝統的なコラール。続いてオルガン独奏で大バッハの「プレリュード・ト長調」(BWV568) であった。その次は少女合唱団とオルガン伴奏による、15世紀の作者不詳の「アベ・マリア」、16世紀の作曲家トマス・ルイス・デ・ビクトリアの「ドゥオ・セラフィム」であった。
 再びベル合奏に戻って、ジョン・ホプキンス・ジュニアの「3人の王」、「伝統的作品」(この意味がよくわからないが、ラトビア民謡か?私は聴き覚えがなかった)「初めてのクリスマス」を演奏。
 古い曲だけでなく、現代の作品もあった。ジョン・ラター(情報がないが、英国人か?)と、我らがペレーツィスである。この演奏会で取り上げられたラトビアの作曲家の作品は、このペレーツィスの「ミサ・ブレウィス」のみであった。ラターの「クリスマスの子守唄」とともに、保守的な和声重視の作品、と思いきや、ペレーツィスは第1曲「キリエ」で不協和音というか、面白い和声進行が用いられていて意外であった。しかしこれは初めの方だけで、やがて伝統的な和声となっていった。以上は少女合唱団とオルガン演奏である。
 次はまたベル合奏に戻り、ルイス・レドナーの「汝、小さき静かなるエルサレムよ」、そしてオルガン独奏で大バッハのコラール前奏曲「おおエルサレムよ目覚めよ」、再びベル合奏でケネス・ラベンバーグの「クリスマスの鐘」、少女合唱で先ほどのジョン・ラターの「ろうそくの光」、締めくくりはオルガンによるパドレ・バービド・ダ・ベルガモの「ソナチネ」が奏された。最後の作品の作者は、生没年が1791~1863年、名前からして北イタリアのベルガモの人なのであろう。今年の9月、北イタリアを旅したときに立ち寄ったベルガモを思い出した。ちなみに、ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」というのは、ベルガモを題材にしている。
 以上、大バッハのいくつかの曲を別にすれば無名の作曲家や作品ばかりで、非常に地味ではあるがよい演奏会であった。この時期は有名なスターが出演して派手な演奏会がいくつもあり(高い入場料を取って)、人を集めていて、その中にはチャリティのもあるのでそれはそれで意義があるのだろうが、こういう地味な演奏会こそ好もしく思える。
 週が明け、本格的に雪が積もっている。そのせいか、少し暖かくなった。良いクリスマスになりそうだ。

2009年12月16日

クリスマスの習慣

 17日は一部地域で大雪となり、西部のコルカ(リーブ人の村があったところ)では1mも積もって周辺の道路が閉鎖されてしまったらしい(翌日には復旧)。こちらでは雪でインフラが遮断されるということはめったになく、ここ数年ではまれに見る大雪である。リーガでは積もっているがもう殆ど降っていない。気温は零下10度前後である。
 クリスマスまで日があるので、もう少し書こう。我々はクリスマスを受け入れたのがつい最近のことだから、単純にキリストが生まれた日だ、と教わっている。しかし実態は、キリスト教普及以前からヨーロッパ各地にある冬至のお祭りに、実際の日がはっきりしないキリストの生誕を結び付けてしまったものらしい(生誕の年すら正確にはわかっていない)。キリスト教導入以前の「異教」が色濃く残るラトビアでは、冬至の晩にみんなでカシの大木に綱をつけて引きずり、リーガの旧市街を練り歩くという行事がある。参加者は(義務ではないが…)動物の格好をする。この行事には市の予算からお金も出ている。ところが、ある失言が多いことで有名な市議会の議員から、これを批判する発言が飛び出した。
 この議員はキリスト教の宣教師でもある。カシの木を引きずって練り歩くなど、異教的で原始的で(しかも、リーブ人のようだ、とまで言っていた)、好ましくないというのである。ロシア人が、ラトビアの民族的な行事に冷淡だというのならわかるが、この議員はラトビア人である。日本と違い、こういうことに宗教が絡んでくる難しい問題があるものだと、改めて考えさせられた。
 市議会議員のこのような発言には当然、民族主義政党から反論があり、リーブ人議員も反論していた。しかしその後、議会が市の予算などの懸案を抱えていたせいか、論争はすぐ下火になってしまった。
 

2009年12月11日

クリスマス・ツリーの発祥地?

 前の投稿からもう3カ月以上が過ぎてしまった。11月後半にはプラス11度という、観測史上最高気温を記録するなど暖冬かと思われたが、12月に入ってめっきり寒くなり、日曜の朝から雪も積もっている。遅ればせながらクリスマスの準備万端、という感じである。
 キリスト降臨祭(アドベント)は、カトリックやプロテスタントの場合、11月30日に近い日曜日から始まるので、今年は29日であった。それから1ヶ月間、街はクリスマス気分である。
 リーガ市は最近、観光振興に力を入れているようで、寒い冬にも観光客をひきつけるため、主な観光名所のライトアップを始めた。11月14~18日(独立記念日)には特別なライトアップのイベントも行なった。見慣れた町並みも違った趣があってなかなか良いものである。それにしても、こういうのを見ていると、本当に経済危機なのだろうかと思ってしまう。
 さて、観光キャンペーンでリーガ市当局はこんなことを言い始めた。クリスマス・ツリーの発祥地は、ここリーガだというのである。1510年、ここでクリスマスの時期にモミの木を飾り付けたという記録があるのだそうな。つまり、来年はクリスマス・ツリー500周年ということになる。
 しかしこれには、早速隣国から反論が出た。エストニアのタリンでは、もっと古い記録があるのだという。私は自分で調査したわけではないが、この他にも15世紀前半にはもうドイツでモミの木の飾り付けが行なわれていたらしいし、テレビ番組でインタビューを受けたラトビア人の歴史学者も、1510年にそういう記録は確かにあったが、それが世界初かどうかは何とも言えないというから、ここは頭を冷やした方がよさそうだ。観光振興は結構だが、歴史的事実は客観的に見ていかないといけないであろう。
 それはさておき、旧市街では大聖堂(ドーム)広場やリーブ広場、その他さまざまな場所で巨大なクリスマス・ツリーが飾られていて、市が立ち、人々の目を楽しませている。家庭では、週末などに近所の森へ探しに行く(場所や本数は法律で規制されている)他、住宅地の空き地や市場などで何十本も並べられて売っているが、値段は結構高い。