ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2008年8月3日

リーブ祭り

 実は、8月10日から18日まで、所用で日本に滞在していた(余談だが、上に表示されている投稿日時は、書き始めた日時なので、書き直してもそのままである。つまり、18日にラトビアに戻ってきて以降書き直した、ということである)。非常に短期間であったので、あまり人と会えず残念であったが、無理を言ってお会いくださった皆さん、ありがとうございました。
 さて、毎年8月第1土曜日には、先住民族リーブ人の祭典が、マズィルベという村で行われる。リーブ語ではこの村の名はイレー(又はイライ)といい、リーブ文化の中心地とみなされているので、1930年代に「リーブ民族の家」が建てられた。ソ連からの独立後にここが復活し、毎年8月第一土曜日に「リーブ祭り」を開催するのが恒例となっている。
 ここ数年、この時期は日本に帰っていたり、ラトビアにいても別の用事が入ったりして、なかなか行けなかった。今年は物理的には可能であったが、非常に忙しくて疲れていたので、朝7時発のバスに間に合うよう起きられるか自信がなかったが、前日にバスの切符を買っておいたのが奏功し(?)けちな私は切符が無駄になってはいけないと、頑張って起きたのである。海水浴の季節なので、当日は満席で切符を買っておかないと席が取れない、という事情もある。マズィルベまでのバスは一日3~4往復しかない。
 今回久しぶりに行こうと思った理由は、そのイベントである。ひとつは、カナダ在住の最後のリーブ語話者の一人が、2000年に出版されたリーブ語教科書のテキストを吹き込み、そのCDのプレゼンがあること、もう一つは、リーブ人をテーマにした演劇が野外で上演されること、であった。
 マズィルベまでのバスの車窓から見える景色は、時々海も見えてなかなか良いのだが、私はすっかり寝てしまった。バスは4時間もかかり、11時ごろ着いて例年12時か13時の開会式に間に合うようになっている。車内では、リーブの三色旗とリーブ語で「リーブ共和国」と書かれたTシャツ(私も合唱祭のとき買った)を着ている人もいたが、当日このバスで来る人はそれほど多くなく、その前にリーブ関係のいろいろなイベントや子供たちのための合宿が1週間ほど行われ、「リーブ祭り」でその幕を閉じるので、着いてみるともう大勢人が集まってのどかに作業したり、散歩したりしていた。
 13時になると人々が「リーブ民族の家」前に集まり、開会式が行われた。民族衣装を着て準備万端の合唱団、吹奏楽団などがずらりと並び、まず恒例のリーブの歌「わが父なる国」斉唱となった。彼らが国家をもっていれば、これが国歌になっていたであろう。歌詞はリーブ語だが、旋律はフィンランドやエストニアの国歌と同じである。3つの言語で、同時に歌えるというのも面白いものだ(実際別のイベントでそういうことが試みられたことがある)。続いてリーブ協会会長のスピーチ(これが面白いのでやはり恒例になっている)、彼の司会により関係者のスピーチとなる。今回は、ラトビア政府でマイノリティ問題を扱う代表である社会統合大臣が来て(遅刻したので最初「どうして来ないんだ」と怒っている人もいた)、スピーチをし、その後私はこの大臣とちょっとおしゃべりした。かなり若い人である。もとテレビ番組司会者らしく(私はテレビで見たことがない)、要するにタレント政治家だ。はっきりいって、リーブ人問題に特別の思い入れがあるようには見えなかった。ちなみにこの社会統合省は、今年いっぱいで廃止されることが決まっている。大臣は国会議員に戻るらしい。その他、リーブ人と同じ民族系統のエストニア、フィンランド、ハンガリーの代表のスピーチが例年あるが、今回はフィンランドからラトビアに来ている大使以外にそれほどの大物はいなかった。かつてはフィンランド大統領が来たこともあるのだが…
 開会式が終わると、みんなで海に繰り出す。リーブ人の生業は漁業であったので、彼ら伝統の漁船で海に出ていくのだ。また民族衣装を着た合唱団が歌っていたり、泳いだりしていたが、海水浴客はリーブ祭りとは関係ない人々かもしれない。昼間だというのに焚き火も焚かれている。これは夜の行事で盛大に焚かれるものだ。
 その後人々は徐々に「リーブ民族の家」に戻る。カナダ在住のラトビア人、R.F.氏が、やはりカナダに亡命したリーブ人女性によるリーブ語テキストの朗読を録音し、それをもとにCDを作成したので、R.F.氏本人も参加してプレゼンテーションが行われた。この人はプロの学者ではないが、リーブ人に関する文献情報データベースなどを作成してインターネットで公開している。学術的にも信頼できるどころか、学者がこういうことをきちんとしなければならないのだと思う。こういう人にはともかく敬服するばかりである。CDは営利目的ではないので会場で配布され、私も有り難く頂戴したが、しかしそれ以外にどこで手に入るのだろうか。お金を出して買ってもいいという人は少なからずいるはずなのだが…
 「民族の家」の庭ではコンサートが行われた。屋内にも舞台付きのホールがあるが、せっかくの夏である。近隣のベンツピルスや、首都リーガを拠点に活動する合唱団はもちろん、夏の合宿でリーブ語や民謡を学んだ子供たちの発表会、はほぼ毎年恒例だが、今年はヒーウマー島の子供たちの合唱があった。エストニアの沖合、もちろんバルト海だが、サーレマー島とヒーウマー島(前者の方が大きい)をはじめいくつかの島がある。ちなみに「マー」とはエストニア語で「国」のことだ。フィンランド語も同じで、リーブ語では方言により「マー」あるいは「モー」という。エストニアの島々は観光地として非常に人気があるが、言葉や風俗なども本土とかなり違っているようだ。私も余力があれば研究したいものである。合唱団の子供たちの衣装はヒーウマー島の伝統的なもののようだったが、踊りはかなり創作が入っているようだった。
 引き続いて「民族の家」の庭では、亡命劇作家M.ズィーベルツの「リーブ人の血統」という芝居が上演された。役者はみんなプロだが、なぜか全員手に台本を持って読んでいた。セリフを覚える時間がなかったのだろうか。野外上演の宿命、途中から雨が降り出し、やがて大降りになった。一向に止む気配がないので、しばらく中断したのち、「民族の家」のホールに移動して続けることになった。ここにも舞台があるから何の問題もない。そのため終了が予定より30分以上遅れたが、まあ誰も気にしていない。
 このリーブ祭で一つ問題になるのが、帰りの足である。私はついうっかり、夜6時台にバスがあると思い込んでいたのだが、なんと土曜運休であった。リーブ祭があるから臨時便を、などという気のきいたことをバス会社はしてくれない。そうなると次は午前4時発になってしまう。みんな思い思いに夜を明かすのでそれまで待っていてもいいのだが、さすがに夜更かしはつらいし、午前4時のバスは海水浴から帰る若者たちで満員になり、ガラが悪いので乗る気がしない。しかしラトビアに住んでいると、まあ何とかなるさ、と楽観的になってしまう。すると本当に何とかなるもので、合唱団のメンバーが借りきっているバスが止まっていて、交渉した末、空いている席に便乗させてもらうことにした。ちょうどその時、どこの国からかはきかなかったが一人で行動している若い女性の観光客が来て、やはり帰りの足がなくて困っていたので同じバスに乗ろうという話になったが、結局乗らなかった。どうやら別の貸し切りバスに乗ったらしい。
 「民族の家」のホールに移動して上演されていた演劇が終わると、合唱団のメンバーが帰り支度をし、バスに乗り込んできた。私も一緒に無事リーガに帰ることができた。

オリビエ・メシアン記念オルガン音楽フェスティバル

 ヨーロッパでは、夏は音楽のオフシーズンで、何もやっていないのかと言えばそうではない。そして、この夏のラトビア音楽も「歌の祭典」だけではない。去年書いたように、スィグルダの「白いグランドピアノ」というホールでは、毎年フェスティバルがあるし、野外オペラやバロック音楽フェスティバルが例年開かれている。
 さて、この夏以降、ブログの投稿がまったく途絶えてしまったことには、言い訳の余地もないのだが、7月に引っ越しをして、何がどこにあるかさっぱりわからなくなってしまったのと、事情があって8月と9月に2回、短期間の一時帰国をして、非常にあわただしかったということがある。
 7月中旬、表題のとおりフランスの作曲家オリビエ・メシアンの生誕100周年記念コンサート・チクルスの一環として、リーガ大聖堂でオルガンコンサートがあったので聴きに行った。たしか、最後の曲だけがメシアンの作品で、それ以外はラトビアの作曲家の作品だったはずだが、プログラムがどこかに行ってしまい、探す暇もないのである。また詳細が判明したら、このブログを書き直す形で報告しようと思うので、あまり期待せずにお待ちいただきたい。