ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2007年2月16日

現代室内楽コンサート

 現地のアコーディオン、クァクレ(民族楽器)、フルート奏者からなる室内楽団アルテラ・ウェリタスの演奏会を聴きに、水曜日小ギルドに行って来た。我々が北條陽子さんのリサイタルを開催した、あの小ギルドである。
 ペレーツィス氏から「私の委嘱作品の初演がありますので、是非来てください」とお誘いを受けていたものである。その前の予定が中途半端だったので早めに着いてみると、なぜか開演ぎりぎりまで開場しないので、大勢人がたまっていた。ペレーツィス夫妻にお会いしたら、11月の「ラトビア・レクイエム」のライブCDをいただいてしまった。私のようにきわめていい加減な人間は、こういう律儀な方にはまったく頭が上がらない。会場には国際的に有名なペーテリス・バスクス、また「タンゴ」で一躍有名になったアルトゥルス・マスカツも来ていた。
 プログラムは、第1部がトゥムシェビツァ、オリベイロ、サンタ・ブッシュ、ダイナ・クリビキェという、若手作曲家たちの作品。オリベイロはオーストラリアの人らしいが、ラトビア民謡をモチーフにした作品を発表。第1部のみ、スクリーンに写真家の作品を映し出しながら演奏が行われる、と言うものであった。第2部は我らがペレーツィスの委嘱作品「朝の歌」初演に始まり、シュミードベルクスの「悲しみの踊り(ただ、訳には自信がない)」、若手ゼニーティスの「消えゆくアリア、こぼれた合唱団(これも訳に自信がない)」で締めくくった。
 バルト三国の現代音楽は、旋律も和声もないめちゃくちゃなものでも、節度があるというのか、比較的わかりやすい作品が多く、この日演奏された曲も、作者の名前すら知らなかったが、楽しめた。それでも、ペレーツィスの「朝の歌」は和声ときちんとした旋律を持った我が道を行く曲で、一服の清涼剤とでもいえる位置づけであったと思う。

2007年2月13日

ペレーツィス氏の近況

 詳細はまた日を改めて書くが、昨年9月に当地でリサイタルを開いたピアニスト北條陽子さんが、来月都内で再びリサイタルを開く。また同時に、リーガでのライブ録音のCDを出す。3月のリサイタルのプログラムも、リーガでのそれとほぼ同じになると聞いている。こうして遠い異国の地から、日本で行なわれるコンサートの告知ができるなんて、インターネットとは妙なものだ。
 いずれも、私がたびたび紹介しているラトビアの作曲家、ペレーツィスの『第4組曲』が演奏される。CDのパンフレットに彼の写真が欲しいということで、デジカメを持って彼の職場、音楽アカデミーに行ってきた。電話は時々するが、会うのは久しぶりなので、写真を撮りながら近況など色々きいてみた。
 私が彼の最高傑作のひとつだと思っている、独奏バイオリン、ピアノ、弦楽のための協奏曲「それにもかかわらず」(切れ目なしで28分もあるので、長い)の唯一のCDは、クレーメルがバイオリンを弾いているのだが、何と数日前、この曲を当地で彼が再録音したのだという。しかも、それは色々事情があって、一般に頒布されるかどうかは未定だという。なんということか!
 そして、やはりクレーメルに捧げられる新作のバイオリン協奏曲の譜面を、見せてもらった。もちろん彼のいつもの丁寧な手書きである。この作品、有名なバイオリン協奏曲のフレーズが随所に散りばめてあるという、なんとも音楽学者らしい凝った趣向の曲だ。しかもそれは、4人もの作曲家、ブラームス、エルガー、シベリウス、ベートーベンの協奏曲である。この4人の組み合わせは凄い。私はどの曲も知っているし、曲の展開を説明してもらったが、悲しいかな、スコアリーディングの出来ない私には、どんな曲になっているのか想像できない。早く聴きたいものである。
 写真は音楽アカデミー内のいろいろな場所で、さまざまなアングルから撮ってみたので、どうぞお楽しみに。

2007年2月5日

1月6日のコンサート

 話が一ヶ月ほど前にさかのぼってしまうが、1月6日は日本で何と呼ばれているのか知らないが、エピファニー、つまりキリストの顕現を記念する日である。東方の三賢人に関係しているらしいのだが、一応ヨーロッパにいるくせにキリスト教に疎いので、いい加減なことを書くとお叱りを受けそうだから、これでやめておく。ラトビアでは「星の日」とロマンチックな名で呼ばれている。
 この日、リーガ大聖堂で宗教音楽(こう訳しても間違いではないが、もう少し原義の「精神」に近い意味でうまく訳せないものだろうか)のコンサートがあり、行ってみた。 オルガン、大聖堂合唱団、ボーカル・グループの出演である。プログラムは初めにフランス、イタリアの古い音楽、それから1977年生まれのラトビアの作曲家、エーリクス・エッシェンワルツの「祈り」、さらに20世紀のフランスなどの作曲家の作品と続いた。私はもともとバロック音楽に慣れ親しんできたので、前半はよかったが、後半は余り耳に心地よくなかった。同行者も古い音楽が好きなので同じことを言っていた。
 こんなことばかり書いていると音楽のど素人のようだが、実際そうなのだから恥を忍んで書かせてもらうと、この大聖堂で行われるコンサートはたいてい、途中休憩がなく、しかも曲と曲の間に拍手をしない。拍手は全プログラムが終了したときだけである。外国人観光客も多いのに、これが定着しているのは不思議である。だから知らない曲ばかりだと、プログラムを買って(私はどこでも必ず買う)追いかけていても、わからなくなることがある。クラシックに余り親しんでいない人がコンサートに行って、誰のどんな曲をやっているのか、わからなくなっていら立つ気持ちが私にはよくわかる。
 もう一つの特徴といおうか、この大聖堂では演奏中も場内がずっと明るく、また途中で出て行ってしまう人が結構多い。日本の聴衆はとても生真面目で、静かに座って真剣な顔で聴いて、律儀に拍手をする。未だ日本人にとっては、クラシック音楽は真面目に勉強するものなのだ。修行なのである。私は別にそれを嘆くわけではないが、日本人ももう少しリラックスできればいいのに、と思う。
 以上、ラトビアの音楽情報を伝えるにはお粗末な内容だが、あまり大上段に振りかぶるのもガラではないので、お許しいただいて、今後も適当におつきあい下さい。