ラトビア便り

ラトビア在住の日本人男性が、この国の文化を紹介。音楽情報などを通じてその魅力を探っていきます。

2007年1月22日

詩人の誕生日会

 忙しさにかまけてしばらく投稿をさぼってしまった。
 元日の投稿に対し初のコメントをいただいた。ありがとうございます。他の読者の皆さんにもコメントをいただけると嬉しいです。
 さて、13日に友人の誕生日を祝いに行った。M. S. 君という詩人である。彼は父親がポーランド人で、3歳までポーランド語だけで暮らしたという。その後はラトビア語も身につけネイティブ・スピーカーとなったので、バイリンガルである。自らラトビア語で詩を書く他、ポーランド語からの翻訳もしている。
 彼の一家はラトビア東部の、比較的ポーランド人の多い地域の出身だ。ラトビアのポーランド人はバイリンガルが多い。誕生日会には彼の婚約者、友人数名の他、弟、妹、父親が来ていた。彼らがポーランド語・ラトビア語を織り交ぜて話すのを聞いていたが、一家そろってバイリンガルなのにはさすがに驚いた。しかも妹さんはフィン・ウゴル学科卒、フィンランド語やエストニア語を専攻していたのである。
 M. S.君の場合、ポーランドに親族も友人もいないそうで、行ったことも殆どないという。私は昨年10月、かの国を旅行したときにクラクフで買った、文学研究の本をプレゼントした。

2007年1月1日

クリスマスと新年

 読者の皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
 こちらはヨーロッパなので、クリスマスは日本においてよりも重要な行事である。しかし、キリスト教受容の歴史が浅く、あまり根付いていないラトビアでは、民間信仰に基づいた冬至の祭りの方が比重が高いように思われる。クリスチャンは教会に行き、旧市街などでは民族衣装や動物などに変装した人々が練り歩き、また家族水入らずでご馳走を食べ、プレゼント交換をして静かに過ごす。クリスマスコンサートなどのイベントも、もちろん多く行なわれている。ちなみに、(ロシア)正教は旧暦なので、2週間ほど遅れる。新暦のクリスマスは2日間祝日だが、正教のそれは、ラトビアでは公休日ではない。
 他の欧州諸国でもそうだが、家族で過ごすのが第一なので、独り者の外国人はこの時期、さびしい思いをすることが多いという。日本ではクリスマスに何もしない私も、さすがにこちらでは直前になると何をしようかと考え始める。2006年のクリスマスは、電車で30分ほど南方の小さな町に住む友人のところへ行くことにした。
 初めて行ったところで、夕方6時過ぎでとっくに日が暮れており、しかもさびしい駅なのでびっくりした。このあたりは2階の一戸建住宅というのが普通で、日本人にはうらやましく思える。
 友人宅も広い。他のお客さんは、車で3時間近くかかる地方からやってきた家族連れ、近所の人など、入れかわり立ちかわり、いろいろな人々がやってきた。
 飲んだり食べたりし、おしゃべりを楽しみ、テレビを見たりと、日本のお正月とあまり変わらないようでもあるが、プレゼント交換はちょっと凝っていた。友人のM君が、「雪だるまおじさん」に扮して、一人一人を呼び寄せ、それぞれに今年はどんなことがあったか尋ねたり口上を述べたりしながら、プレゼントを渡すのである。各自いくつもプレゼントを持ってきているので、いくつかもらえるわけである。それがすむと、どこかへ姿を消していたM君が戻ってきた。「あれ、どこへ行ってたの?いま、雪だるまおじさんが皆にプレゼントくれたのよ」「ええ、そうだったの?」そして、最後にM君もプレゼントをもらうわけだ。こういうのはなかなか楽しい。
 庭では焚き火をする。都市でも大きなアパートや一戸建てでは、暖炉にまきをくべるのが普通である。中小のアパートなら集中暖房が入っているが、それでも寒いときは補助の暖房を入れないといけない。この家でも暖炉にくべる薪が納屋に保管されているので、そこから何本か持って来て焚き始めた。乾燥した薪には、裂け目がいくつも入っている。みんな、細長い紙に今年あった嫌なことを書いて、折りたたみ、その裂け目に差し込む。そして一緒に燃やしてしまうのである。
 新年はもっと地味である。一般に休日は大晦日と元日ぐらいしかなく、2日から仕事を始めるところが多い。アンケートでは、約半数が自宅で家族と過ごすのだそうだ。
 これまで私は、民族音楽センターに行って歌ったり踊ったりしながら新年を迎えることにしていたが、今回は先住少数民族リーブ人の団体が、初めての試みとして、西部のバルト海岸にある「リーブ民族の家」で新年を迎えるイベントを企画し、民族音楽センターもそちらに合流することになった。「リーブ民族の家」はマズィルベという小さな村にあり、路線バスも出ているが貸し切りバスを出すというので、申し込んでおいた。
 大晦日の朝、オペラ座の前に集合し、貸し切りバスに乗り込んだ(この辺りは観光バスなどを停めておくのに便利だからで、オペラとこのイベントは関係ない)。路線バスだと海は見えないが海岸線沿いに走るので、遠回りになり4時間以上かかるが、貸し切りバスは内陸をほぼまっすぐ走り、2時間半ほどで午前中に着いてしまった。
 「リーブ民族の家」に到着すると、食事をし(食堂はなく小さな商店が1軒あるだけなので、食料は皆で持ち寄った)、皆荷物を置いて散歩へ出発。海岸を散歩したり、火の見やぐらを登って上から写真を撮ったりした。航空写真を見たことがあるが、本当に美しい砂浜が何十キロにもわたって連なっている。林、砂浜、海?上から緑、白、青の三色旗が、リーブの旗と定められている。国旗ではないから何の効力も持たない。リーブ人が国を持つことは、今後もないだろう。
 夕方、主催者の一人、女性歌手のユルギーさんの率いる怪しい一団が、この「民族の家」を後にした。一行はまず海のほうに向かったが、砂浜には出ず、松林の中をかき分けて行進していった。6時ごろでもう真っ暗なので、何人かは松明を持っていた。それから、何軒かの民家を訪問した。まず歌を歌って家人を呼び、ジプシーに扮した女性たち、馬(日本の獅子舞のように二人が中に入っている)、死人(白装束の男が、両肩にサンダルをはかせた長い棒を二本乗せている。ちなみにこのサンダルは私のだ)、そして3人の「海の娘」たち。彼(?)らが、新年の幸せをもたらすというわけである。「海の娘」は全員が女装したむくつけき男たちで、私もその一人であった。ユルギーさんが家人にわれら全員を紹介する。私に関しては「遠い遠い海からやってきました」確かにその通りである。こういうところが中々うまい。これを何軒か人のいる家で、玄関先か、家の中にみんな入っていって行なったのである。最後に「民族の家」へ招待の言葉を述べておいたので、何人かの村人も後で遊びにやってきた。
 とはいえ、本当に人家もまばらな村で、「リーブ民族の家」はそれに似つかわしくないほど大きく、ホールもある。20世紀初頭までは漁業で賑わったこの村も、2度の世界大戦で住民が散り散りになり、ソ連時代は軍事的に重要な拠点として立ち入りが制限された。こののどかで美しい砂浜を、第二次大戦中ナチス・ドイツとソ連の双方の軍隊が爆撃したのである。リーブ人がアイデンティティを失ったのにはさまざまな要因があるが、このことが非常に大きい。
 引き続きユルギーさんの司会でさまざまなイベントが行なわれ、新年が近づくと皆シャンパンを用意し、カウントダウン。それからは民族舞踊を踊りあかし、めいめい飲み食いをしたり、寝袋で一眠りと、思い思いに過ごした。
 夜明け前にになって、リーブ協会の若いメンバーが集まって今後の計画について話し合いもしていた。さすがにそれからみんな眠りに着いた。2007年最初の遅い朝も皆のんびりとお茶を飲み、食事をし、我々は午後1時発の貸し切りバスでマズィルベを後にし、首都リーガへ戻ってきた次第である。